碑(いしぶみ)調査隊

京都の碑(いしぶみ)をたずねてみました。




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2007年10月31日(Wed)▲ページの先頭へ
鯖街道の起点
鯖街道の起点 鯖街道の起点はどこにあるのか、確かめに福井の小浜市まで行ってみました。(徒歩でなく、もちろん車ですが)
小浜市の中心街、小浜駅や小浜市役所から徒歩10分のいづみ町商店街に街道の起点を示すプレートがありました。 鯖街道の起点 10月からはじまる朝の連続テレビ小説、「ちりとてちん」は福井県のここ小浜市で塗り箸職人の娘が主人公ということで、小浜駅前周辺を歩けばそこかしこに「ちりとてちん」の幟がたちならんでいます。 鯖街道の起点かぐわしい炭火焼の焼き鯖の匂いが充満しています。 鯖街道の起点ありましたここです。

京は遠ても十八里
さば街道起点
若狭小浜いづみ町

と書かれています。
鯖街道口こちらは鯖街道の終着点。
出町柳の枡形商店街にある碑です。 鯖街道の起点小浜に伝わる古い文書で『市場仲買い文書』というのがあり、その中に「生鯖塩して荷い、京へ行き任る」という文章があり、その字も小さく書かれています。

若狭から運ばれた鯖が、京の都へつく頃には丁度よい塩加減になったという意味ですが、いまも京の食文化の中に若狭の魚が生きていますし、京都の人にとって海と云えば、まずは福井に広がる日本海のことを指します。


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2007年08月05日(Sun)▲ページの先頭へ
明智光秀公首塚
明智光秀公首塚 昔の亀山、現在の亀岡にある真言宗大覚寺派 谷性寺にも明智光秀の首塚があります。 明智光秀公首塚光秀寺とも云われるこの谷性寺の光秀公首塚の石碑、年代は比較的若く、安政2年(1855年)に光秀の怨念を鎮めるために建てられたそうです。

本能寺の変後、豊臣秀吉の軍に山アの戦いで敗れ、坂本城に向かう途中の天正10年、山科小栗栖で民衆に刺され殺されました。溝尾庄兵衛は光秀の首を隠しておき、後に光秀が生前に信仰していた谷性寺に運び埋め葬ったという史実に基づいています。

ちなみに明智光秀の首塚は三条通から南に入った白川沿いの東側にもあり、胴塚は山科区勧修寺御所内町に碑が建っています。
もう一つの明智光秀の首塚
明智光秀公首塚境内には明智山門なるものもあり。

亀山城築城の際・城下町の整理による寺院配置で、柳町の西願寺の山門が光秀ゆかりのこの寺に移築されました。400年の時を経ても、蛙股には今も桔梗紋の彫刻がくっきりと残っていました。


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2007年07月28日(Sat)▲ページの先頭へ
鯖街道口−京は遠ても十八里−
鯖街道口京は遠ても十八里。

上京区出町橋西詰にある鯖街道口の碑です。

側面に 「小浜からのいくつもの峠越えの道のうち若狭街道がいつしか鯖街道と呼ばれるようになりました。若狭湾でとれた鯖に塩をふり、担ぎ手によって険しい山越えをして京の町に至るこの食材の道は今に息づく長き交流の歴史を語り続けます」と記されていました。 鯖街道口石碑の左横にある大きな柳の大木こそが出町柳の名前の元となった柳です。 鯖街道口出町枡形商店街前に埋め込まれたさば街道のプレート。

ここには鯖街道のルートは小浜、熊川、朽木、途中、大原、出町、いわゆる若狭街道を記していますが、鞍馬山で有名な鞍馬街道や美山を通る周山街道、西近江路と京都を繋ぐ街道全てがさば街道です。 鯖街道口鯖街道とは,この地から高野川左岸を北上して,八瀬・大原,近江国朽木から越前小浜へ至る若狭街道のことである。京都と若狭湾を結び,魚の輸送路となり,なかでも鯖が多く運ばれたことから「鯖街道」と呼ばれるようになった。この石標は鯖街道の起点を示すものである。

フィールドミュージアム京都より引用


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2007年07月24日(Tue)▲ページの先頭へ
茶碗子の水
茶碗子の水,茶碗子の井戸京都の伏見、京阪深草駅から石峯寺へ行く途中に小さな地蔵堂横に井戸があります。
有名な 茶碗子の水と茶わんこの井戸です。 茶碗子の水,茶碗子の井戸以下は案内板よりおおよそを引用

路傍の地蔵堂の横に清冷な水がある。京都の名水の一つで茶碗子の水と呼ばれている。

伝えに寄れば昔、都のある茶人が使用人にいつものように宇治迄水を汲んでくるように頼みましたが、帰り道に、ここら辺り(石峯寺門前)で、汲んできた水をこぼしてしまいます。しかしそこらで偶然に見つけた井戸水を 素知らぬ顔で持ち帰り、茶を点てたところ茶人は、いつもの水との違いに気付き使用人を問い詰めます。

すると使用人は恐る恐る一部始終を茶人に話しました。茶人は叱るどころか大そうこの 水を気に入り、宇治川の水より良いとほめられ以後その使用人は宇治迄遠出の必要ががなくなったという伝説の水です。 茶碗子の水,茶碗子の井戸
茶わんこの井戸。
アルミの枠がはめられ、鍵がかかっており、中はのぞけません。

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左女牛井之跡
左女牛井之跡京都の下京区堀川通五条下る西側にある左女牛井之跡の碑です。 
この石標は京の名水の一つ、左女牛井(醒ヶ井,さめがい)井戸跡を示し、この附近を佐女牛井町というのは、この井戸の名前にちなんでいます。 左女牛井之跡京の名水として平安時代より知られ 源氏の邸いわゆる 六条堀川館の内にとり入れられていた。

室町時代には 南都の僧・村田珠光がこの畔に居を構え  茶道を興し足利義政も来遊したという。
内径二尺四寸の丸井戸で 江戸初期元和二年五月 織田有楽斎はこれを改修した。
その後 天明大火で埋もれたが 安政二年薮内家六世 竹陰によって補修され その碑が七世竹猗により 建てられていたが 円井戸とともに第二次世界大戦 最末期民家の強制疎開とともに撤去された。
駒札より引用
左女牛井之跡もともとは源頼義がこの地に築いた源氏六条堀川邸内の井戸であったそうです。村田珠光が将軍足利義政に献茶した際にこの水を汲み,千利休(1522〜91)らも愛用したといういわれがあります。

しかし第二次大戦中,堀川通の拡幅により消滅させられてしまい、現在はその跡を示す石碑しか残されていません。

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2007年07月15日(Sun)▲ページの先頭へ
野々村仁清窯址
野々村仁清窯址御室の仁和寺門前にある御室竪町に江戸時代の京焼の祖 野々村仁清の窯跡の石碑が建っています。

野々村仁清(生没年未詳)は,丹波国北桑田郡野々村(現京都府美山町)出身です。名は清右衛門。瀬戸で修業し、京都粟田口に出て製作を始めました。
野々村仁清窯跡正保年間(1644〜48)仁和寺門前に御室窯を開き、茶匠金森宗和の指導のもと,轆轤成形と色絵付に卓越した才能を発揮、茶道具に華麗な意匠をもりこんだ数々の名作をつくり、貴族をはじめ、大名や京坂の豪商などにひろく愛用されました。

美山で生まれ、粟田や八坂で修行、瀬戸へ出向き、最後はここ御室で窯開きと82歳の生涯を終えるまで活動的な人生でした。ちなみに仁清の仁の一文字は仁和寺門跡から下賜されたものです。

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尾形乾山鳴滝窯跡
尾形乾山 陶窯跡仁和寺ほど近く、宇多野にある宝蔵寺門前に野々村仁清の弟子、尾形乾山の邸宅跡と鳴滝窯跡の石碑が建っています。

鳴滝窯の鳴滝の由来は地域を流れる御室川の渓流がこのあたりで滝のようになり、水音が遠くまで鳴り響いたので地名となり、乾山の名はこの地が都から見て『乾(北西)の方角』にあることからそう号したと言われています。 尾形乾山 鳴滝窯跡淋派を大成した尾形光琳の弟、乾山、本名は尾形深省、寛文三年(1663)に京都の呉服商雁金屋の三男として生を授けられました。

 京焼の祖といわれる野々村仁清に陶芸を学び、元禄12年(1699)、37歳の時にこの地に居を構え窯を開きます。50歳で、京市内の二条丁子屋町に移住、晩年は江戸に向い、寛永寺領入谷に窯を築いて81歳でその生涯を閉じました。

乾山は仁清と異なり、茶道具より食器中心、タタラに銹絵(さびえ)や白泥で描き、上絵で赤と緑などを散らしたスタイルは乾山ものとして現代陶工も度々試みています。また 乾山が成型し、光琳が絵付をする兄弟合作の作品が多数残されています。 尾形乾山 鳴滝窯跡
尾形乾山(1663〜1743)は,呉服商雁金屋の三男で光琳の弟。乾山の号は,京都の乾の方向にあたるこの地に住して窯を築いたことによる。野々村仁清の色絵陶技を学び絵付模様に特色を出して高雅な作品を残した。晩年は江戸に下り入谷に住した。この石標は乾山の邸宅と鳴滝窯の跡を示すものである。
フィールド・ミュージアム京都から引用


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2007年06月11日(Mon)▲ページの先頭へ
西野山古墓 本当の将軍塚再び
西野山古墳 本当の将軍塚再び先日の京都新聞に清水寺を創建した征夷大将軍 坂上田村麻呂の墓が山科の西野山古墓である可能性が高いと記事が載っていました。

以前、このサイトでも本当の将軍塚坂上田村麻呂の墓は勧修寺小学校横の坂ノ上田村麻呂公園にあるとお伝えしましたが、事実は異なるようです。 西野山古墓 本当の将軍塚再びその西野山古墓は今熊野から山科へ抜ける滑石街道沿いにあり、太閤垣CCを少し下がった突き当たりにそれを示す石碑があります。 西野山古墓 本当の将軍塚再び方角的には清水寺から南東約2キロの山科盆地西部、石碑は残念ながらフェンスと竹やぶに覆われています。 西野山古墳古墓の近くを通る滑石街道は、当時、東国から都に入る主要ルートということから、ここに墓を決めた理由は都の玄関口でにらみをきかす意味もあったのではないかと京都新聞には書かれていました。

このあと、京都大総合博物館で開かれている「京大の至宝」展を見に行ったのは云うまでもありませんがその話はまた。

下記は2007年6月5日 読売新聞より引用
平安時代初期に奥州の蝦夷(えみし)を平定した征夷大将軍坂上田村麻呂(758〜811)の墓が、被葬者不明だった西野山古墓(京都市山科区)である可能性の高いことが、京都大大学院文学研究科の吉川真司准教授の研究でわかった。西野山古墓からは金の装飾が施された大刀など豪華な副葬品が出土しており、これらは6日から京大総合博物館(同市左京区)で開かれる「京大の至宝」展で初公開される。  吉川准教授は田村麻呂が創建したとされる清水寺(同市東山区)に残る文献「清水寺縁起」を調査。田村麻呂の墓地として記述されている地点を「条里図」(当時の地図)と照合したところ、8世紀後半から9世紀前半の築造とみられる西野山古墓の場所と一致することが確認されたという。  吉川准教授は「副葬品からも当時の一級の武人にふさわしい墓。墓の近くに、平安京から奥州に向かうルートがあり、都を守る願いが込められていたのだろう」としている。  上田正昭・京都大名誉教授(日本古代史)は「副葬品から可能性は高く、注目すべき説」としている。
 
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2007年05月23日(Wed)▲ページの先頭へ
茶屋四郎次郎 邸宅跡
茶屋四郎次郎 邸宅跡織豊時代から江戸時代初期の京都の呉服商の豪商で、現在の京焼を語るにきわめて重要な人物、茶屋四郎次郎の邸宅址です。
現在は近畿農政局になっています。 茶屋四郎次郎 邸址以下は京都のフィールドミュージアム京都の引用

京の豪商茶屋四郎次郎は,六代まで中京区新町通蛸薬師下るに居を構えていたが,宝永5(1708)年の大火によってこの地に移転した。この地は,初代清延(1545〜96)が徳川家康に仕えた際に,屋敷地として与えられたものである。

この石標はその邸宅跡を示すものである。なお,この附近を茶屋町というのは,この邸宅に因むものである。

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2007年03月27日(Tue)▲ページの先頭へ
土御門内裏跡
土御門内裏跡御所の北西、蛤御門前にある土御門内裏跡の碑です。

土御門内裏は鳥羽(1103〜56)・崇徳(1119〜64)・近衛(1139〜55)三代の天皇が約24年間にわたって利用した方一町規模の里内裏です。 土御門内裏跡平安京大内裏を模して造営された最初の里内裏で、もと源師時(1077〜1136)の土御門邸がありました。たびたび火災などに遭遇しましたが、保元元(1156)年の再建が中止されて廃絶しました。

現在は京都ガーデンパレスというブライダルホテルになっています。

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2007年02月27日(Tue)▲ページの先頭へ
楠部弥弌作陶之地
楠部弥弌作陶之地 京焼界の巨人中の巨人、陶芸家 楠部弥弌の粟田口の工房の地を示す石碑が岡崎円勝寺町の神宮道沿いに建てられています。 楠部弥弌作陶之地 楠部弥弌(1897〜1984)は、京都市東山区の生まれ。陶磁品の貿易を営む家庭に生れる。1913年京都市立陶磁器試験場特別科に学び、1916年赤土社の結成に参画し尖鋭的な活躍をはじめる。1924年パリ万博で受賞。1927年工芸部が新設された第8回帝展に初入選。

以後、帝展といった官展にあって造形に新境地を拓き、青陶会の結成など、後進の指導にも尽力した。1937年「彩梃(さいえん)」と名付けた独自の技法を発表。個性的な創造により多彩な作風と生み出し、近代陶芸に多大な功績を残した。

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2007年02月20日(Tue)▲ページの先頭へ
与謝蕪村の邸宅跡
与謝蕪村邸宅跡摂津出身の江戸時代の俳人で画家でもある 与謝蕪村の邸宅跡(終焉の地)が仏光寺通烏丸西入南側にあります。現在は啓明商事という和装商社になっています。 与謝蕪村邸宅跡江戸で俳句を学んだのち上洛し、その後居を転々としたが、42歳の頃京都に落ち着きます。島原角屋などで句を教えるかたわら、この地で絵画や俳句の創作活動を行い、ここで没しました。

ちなみに与謝蕪村の墓所は左京区一乗寺門口町の金福寺にあります。

月天心貧しき町を通りけり    蕪村


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2007年01月27日(Sat)▲ページの先頭へ
坂本龍馬、中岡慎太郎遭難の地
坂本龍馬、中岡慎太郎遭難の地 有名な坂本龍馬、中岡慎太郎遭難の地の石碑が四条河原町西側にあります。

慶応3(1867)年11月15日夜,この地近江屋に居た坂本龍馬と中岡慎太郎は刺客により暗殺されました。くしくもこの日は坂本龍馬33歳の誕生日のことでした。 坂本龍馬、中岡慎太郎遭難の地この石標は坂本龍馬、中岡慎太郎両人が暗殺された商家近江屋の跡を示すものです。 現在は京阪交通公社京都支店になっています。

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中岡慎太郎寓居地
中岡慎太郎寓居地中岡慎太郎寓居跡の石碑です。

土佐藩郷士で坂本龍馬とともに薩長同盟成立に活躍した維新の志士 中岡慎太郎。
当時住んでいた家の跡を示す石碑は四条河原町東側、京都あぶらとり紙専門店象の前に建っています。

この石標は、脱藩後の中岡が身を寄せた土佐藩御用達書林菊屋(鹿野安兵衛宅)の跡を示すものです。

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愛宕念仏寺元地
愛宕念仏寺元地有名な嵯峨鳥居本にある愛宕念仏寺。

大正11年まで東山の大和大路松原あたりにあったのをご存じですか?写真はその愛宕念仏寺元地を示す石碑です。

愛宕念仏寺は、平安時代醍醐天皇の勅願で、延喜11年伝燈大法師千観の開基。千観は空也の教えを受けて熱心に念仏を進め、念仏上人とも呼ばれたので念仏寺の称されました。天台宗延暦寺派で、本尊は千手観音。大正11年右京区嵯峨鳥居本に移転されました。

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2007年01月08日(Mon)▲ページの先頭へ
如庵と正伝永源院
臨済宗 大本山建仁寺建仁寺界隈を歩くと、 正伝永源院上の写真の案内板をよく見かけませんか?特にJRAの場外馬券場あたり。

その先にある正伝永源院は京都の臨済宗 大本山建仁寺の塔頭のひとつです。

茶道ゆかりの寺院としても有名で、織田信長の弟 有楽斎が建てた名席「如庵」が復元されています。 正伝永源院以下は正門前の駒札から引用

当院は建仁寺の塔頭の一つで、建仁寺三十九世無涯和尚が創建し、もと永源庵と称し、肥後細川家の最初の菩提寺であったが、明治6年(1873)廃寺となったため祇園にあった正伝院をこの地へ移し、のち永源の名を受け継ぎ今の名に改めた。  釈迦如来を本尊とし客殿・庫裡・鐘楼・唐門のほか、平成8年に正伝院に有楽斎が建てた名席「如庵」を復元した。  寺宝には有楽斎に関する遺品が多い。 正伝永源院有楽斎は織田信長の弟で長益と号した。信長の死後剃髪し、千利休に従事して茶道の宗匠となった。晩年は「正伝院」を再興し、茶道三昧の生活を送ったが、元和7年(1621)75歳で没した。有楽斎の墓は旧地に残されていたが、昭和37年、有楽斎夫人、息女、孫長好の三基とともにここに移された。

写真の右端は門前の織田有楽斎の墓のあることを示す石標です。

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北座跡
南座 年末の顔見世興業で賑わった京都の四条河原町にあります南座ですが、四条通りを挟んで北座があったのご存じですか? 北座跡こちらがその北座跡です。

南座も北座も江戸時代初期、元和年間、四条河原での興行が許可された7ヶ所の常設芝居小屋のひとつで、南座は現存する日本最古の劇場と云われています。

のちに四条河原の整備によって幕末には7ヶ所のうち、北座と南座だけが残っだんだそうです。

その北座も明治26年に取り壊され、現在は南座のみになっている。 北座跡現在は井筒八ツ橋さんのビルになっています。

こうなれば7つの残り5つの名前が気になりますが、まさか、東座や西座じゃないですよね。

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平忠盛燈籠
平忠盛燈籠 初詣客で賑わう八坂神社の拝殿東側に置かれた有名な平忠盛燈籠です。 平忠盛燈籠鎌倉時代、永久年間に白河上皇が平忠盛をお供に五月雨の中を移動中、「鬼」の様な物が見えたので平忠盛に討てと命じました。

忠盛は「真葛ヶ原の狐が化けたものだろうと考え、正体を見定めての上討ち取りましょう」と生け捕りにするとそれは燈籠に火を入れようとした祇園の僧で、光る銀髪は雨よけに着ていた蓑が光を反射して見えていただけだった。

と伝えられています。 平忠盛燈籠 それ以降、平忠盛は的確な判断の下せる人として尊敬されました。

その説話の燈籠がこの忠盛燈籠です。

この話には続きがあり、その褒美に白河上皇は寵愛していた祇園女御を下賜されその子が平清盛であるという説が残されています。

鎌倉時代のもので、八坂神社では最も古い灯篭です。もとは西楼門のそばにあったそうですが現在は拝殿の東側にひっそりたたずんでいます。

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2006年12月12日(Tue)▲ページの先頭へ
火の鳥 水 時計
火の鳥 水 時計JR京都駅地下一階コンコースにあるモニュメント「火の鳥 水 時計」です。

京都駅ビル5周年を記念するモニュメントで、京都開催の「第3回世界水フォーラム」に合わせて設置されました。 火の鳥 水 時計手塚治虫の描いた火の鳥が乗るガラスの地球の下には、本物の水琴窟が埋め込まれいて、一時間に一回、光り輝き、下から音楽が聞こえてきます。

手塚治虫の最後のメッセージ、ガラスの地球を救えがモチーフになっています。 火の鳥 水 時計モニュメントの前にはベンチが置かれ、京都駅の待ち合わせスポットになっています。

〜以下は案内板の言葉を引用〜

「火の鳥 水 時計」は手塚治虫氏の唱えたガラスの地球を中央に据え、背景に京文化の洛中洛外図を配し、滑らかに循環する水と合わせ、小宇宙の再現を試みました。そして過去から未来への象徴として手塚作品に登場する火の鳥を中心に置き、この小宇宙での営みが途切れず続く再現性を表現。

またガラスの地球の下に埋め込まれた、本物の水禽窟が奏でる音風景と合わせてお楽しみ下さい。この時計から京都と美しい水の関係を思い起こして頂き、未来人の為の美しい地球について考え、向かい合う一助となることを願っております。

京都駅ビルは開業5周年を迎えました。これを記念するとともに、京都駅での出会いの場のシンボルとするため、3月16日から京都を中心に滋賀、大阪を結んで開催される第三回世界水フォーラムに合わせ、「火の鳥 水 時計」を設置致しました。

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2006年10月29日(Sun)▲ページの先頭へ
花の御所
足利将軍室町第址、通称 花の御所の石碑 御所近く、室町通今出川角に、足利将軍室町第址、通称 花の御所の石碑が散髪屋さんの横に立っています。

室町幕府三代将軍 足利義満は,永和4(1378)年,北小路室町に新しい邸宅を完成させました。当時この地域が「室町」と言われていたことから、室町殿、室町第とも呼ばれ、「室町時代」の名前もこの地名に由来しています。

庭内には鴨川から水を引き、各地の守護大名から献上された四季折々の花木を配置したと伝わり、「花の御所」とよばれたということです。現在はこの石標しかありませんが、敷地は南は北小路,北は毘沙門堂大路,東は烏丸小路,西は室町小路の東西一町・南北二町とみられています。


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2006年10月27日(Fri)▲ページの先頭へ
出雲 阿国の像
出雲 阿国の像 歌舞伎の祖・出雲の阿国の銅像が四条大橋北東にあります。

現在の歌舞伎は諸説ありますが、出雲出身の阿国が北野天満宮境内で「かぶき踊り」を披露したのが始まりとされています。 出雲 阿国の像阿国が活躍したのは江戸時代初期。出雲大社の巫女として大社修復の勧進(修復のために寄付を集めること)に参加したのが、阿国のキャリアのスタートでした。

念仏踊りをしながら京を目指した阿国は数人の仲間と京に残ります。少女を踊り手とする「ややこ踊り」を鴨川河川敷などで披露し、後年は「かぶき踊り」へと繋がっていきます。

歌舞伎のもととなる言葉、傾く(かぶく)は異様な身なりを指します。 女性の阿国が短い髪とど派手な着物の男装姿で踊るのは当時、都では異様に扱われ評判を呼んだのでしょう。




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2006年10月20日(Fri)▲ページの先頭へ
ワグネル顕彰碑
ワグネル顕彰碑 近代、京焼清水焼の発展に多大な影響を与えたドイツ人科学者 ワグネルの表彰碑が岡崎にあります。

京都人には意外と知られていないゴッドフリード・ワグネルはドイツの科学者で、幕末に初来日、それ以降二十年に渡って化学の啓蒙、工芸の推進を行い、多大な功績を残しました。

明治十一年には京都府に招かれ、医学校で理化学を、舎密局で化学工芸を教えた。また、その間に七宝焼きや焼きものの着色技術や広め、京焼清水焼のみならず、あらゆる産業に多大な功績を残した人物です。

特に島津製作所の創業者 島津源蔵への影響は有名で、その時の理化学機器への関心が現在の島津製作所の発展に繋がります。 この碑は京都市が官民を代表してその功績を讃え、大正十三年にこの岡崎に建てたもの。 ワグネル表彰碑 場所はみやこめっせと京都府立図書館の間にある北東の公園の中です。 ワグネル表彰碑 ワグネルは京焼清水焼同様、有田においても窯業を指導しています。有田で石炭窯を使うきっかけとなったのはワグネルの指導によるものです。

京都にいたときと同じく、ワグネル呉須と呼ばれている酸化コバルト希釈方法を指導し、焼き物の色絵技術を広め、自作の焼きものも残っています。


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2006年10月19日(Thu)▲ページの先頭へ
扇塚
扇塚 五条大橋を渡った西側角のトイレ横に扇塚の石碑が置かれています。

かつて五条大橋の西北詰は、新善光寺という寺があり、この寺の尼が作り出した扇が御影堂扇といわれ、近世では最上の扇とされ有名でした。その様子は拾遺都名所図会に描かれています。

この地は古くは御末広師が集まった扇の産地として有名で、それを記念して、1960年(昭和35)御影石で作った扇形の碑が置かれました。 五条大橋扇塚の記

扇は平安時代の初期、この地に初めて作られたものである。ここ五條大橋の畔は時宗御影堂の遺趾であり、平敦盛没後その室本寺裕寛上人によって得度し、蓮華院尼と称し、寺僧と共に扇を作ったと言い伝えられている。 この由緒により扇工、この地に集まり永く扇の名産地として広く海外にまでも宣伝されるに至った。いまこの由来を記してこれを顕彰する。

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土下座前
高山彦九郎先生皇居望拝跡三条大橋の東側にある有名な土下座した高山彦九郎の銅像です。 正式名称は高山彦九郎先生皇居望拝跡ですが、交通の要所にあることから、通称、土下座前と呼んで、京都人の待ち合わせ場所になっています。 高山彦九郎先生皇居望拝跡 高山彦九郎(1747〜93)は上野国(現群馬県)出身の尊王家です。諸国を歴遊し勤王を説いたが,筑後国(現福岡県)久留米で自殺しました。蒲生君平・林子平とともに寛政の三奇人(?)と称されています。

京都に遊説した時,三条大橋からはるかに御所を伏し拝み,皇室の衰微を嘆いたという逸話があることからも奇人と呼ばれたのも分かる気がします。土下座した姿はその逸話に基づいたものです。 高山彦九郎先生皇居望拝跡 維新の志士たちにも影響を与えたとされ、当時の尊皇家の思想の凄さが伝わってきそうな表情です。



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2006年10月17日(Tue)▲ページの先頭へ
太田垣蓮月仮寓跡
太田垣蓮月仮寓跡 醍醐寺門前に悲運の歌人 太田垣蓮月仮寓跡が残されています。

ちなみに仮寓とは仮住まいのことです。蓮月は33歳で出家して、蓮月尼と称してからは、孤独を求めて、岡崎や西賀茂などを転々と住まいを変えましたが、この醍醐の地もその一つです。 太田垣蓮月仮寓跡現在はどなたかがお住まいのようです。 碑には太田垣蓮月を慰めるかのように菊の花が咲いていました。

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本当の将軍塚
坂上田村麻呂の墓将軍塚と言えば東山ドライブウェイの夜景の見える高台を連想されるかもしれませんが、実は本当の将軍塚は山科の勧修寺小学校の横にあります。

有名な東山の將軍塚は後世名付けられたもので、本来の將軍塚はこちらです。 坂上田村麻呂公園現在は坂ノ上田村麻呂公園として整備されており、市民の憩いの場となっています。 坂上田村麻呂の墓東山の高台の将軍塚には塚の下に甲冑を身にまとい矢を持った、高さ2.5メートルほどの人形が西の方を向いて埋められているとされています。

こちら山科の将軍塚はあの坂上田村麻呂が甲冑・剣、弓矢を具した姿で棺におさめられ、平安京にむかって立ったまま葬られた場所です。

話がよく似ているので二つの将軍塚は混同されているようです。 坂上田村麻呂の墓 京都市が書き記した札があるので以下に示します。

坂上田村麻呂の墓

この墓には、平安前期の武将坂上田村麻呂を葬っている。
田村麻呂は、奈良時代の武将坂上苅田麻呂の子。
延暦二十年(801)、当時の日本では大きな問題となっていた蝦夷地を平定するため征夷大将軍に任命され、遠く陸奥に出兵し、これを治めて大変な功績をあげた。
京都にあっても弘仁元年(810)の薬子の乱などに活躍し、官職は右近衛大将にいたった。
弘仁二年五月二十三日死去、五十四才。
この地で葬儀が営まれ、嵯峨天皇の勅によって甲冑・剣や弓矢を具した姿で棺に収められ、平安京にむかって立ったまま葬られた。
田村麻呂はまた仏教の信仰も深く、清水寺を創建したことでも有名である。
なお、この墓地は、明治28年平安遷都千百年祭にさいし整備されたものである。
京都市
坂上田村麻呂の墓坂上田村麻呂は私にとっては清水寺を創建した人物として特別の歴史上の人物です。赤ら顔のひげづらで怪力の持主、平安時代、真の勇者であったといわれています。称号「征夷大將軍」は武門最高の栄誉としてそれ以降、総ての武士の尊敬であり目標でした。

五十四歳で亡くなるとこの地で葬儀が営まれ、嵯峨天皇の勅によって甲冑・剣や弓矢を具した姿で棺におさめられ、平安京にむかって立ったまま葬られたと言われています。 坂上田村麻呂の墓 死んでもなお平安京の守護神とされたわけで、どれだけ当時の都人に頼りにされていたかが分かるエピソードです。
後日、国家に危険が差し迫った時には塚の中で大きな音がしたらしく、これを「將軍塚鳴動」といわれました。 坂上田村麻呂の墓将軍。こちらでほんとにお休みでしょうか?安らかにお眠り下さい。

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2006年10月16日(Mon)▲ページの先頭へ
裏千家 今日庵
上京区小川寺ノ内上った所に裏千家今日庵があります。また表千家不審庵とは隣接しています。

切腹した千利休を初代と数えると、三代目の宗旦の息子たちの時代になって、千家は三つに分かれてしまいます。

ご存じの通り、裏千家は茶道最大の流派で、茶道人口の過半数は裏千家門下であるとみられ茶室・今日庵(こんにちあん)は裏千家の代名詞です。

写真は裏千家の象徴 兜門です。檜皮葺の簡素な門構え、竹樋のただずまいは侘び茶の精神を表しています。ちなみに内部は拝観不可となっています。

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醒ヶ井の水
醒ヶ井の水 四条堀川を少し東へ歩いた醒ヶ井通の角に有名な洛中三名水の1つ醒ヶ井の井戸があります。現在は亀屋良長本店角にあり、この店で造られる和菓子には地下80メートルからのこの水が使われているんだそうです。

古くは佐女牛井とも書くこの井戸の水は古くから京都の名水として知られ、この近くにも利休の屋敷があったと伝えられます。 醒ヶ井の水 天正15年(1587) 6月13日、利休は醒ヶ井の屋敷に豊臣秀吉、黒田勘解由、細川幽斎、今井宗久を招いて茶会を開きました。この時、この醒ヶ井の水が使われています。また「南方録」には、津田宗及が利休を暁の茶に招き、醒ヶ井の水を汲んでこさせたところ、利休がたいへんよろこんだという逸話が残っています。

洛中三名水とはこの醒ヶ井の水の他に、染井、県井があり、染井は梨木神社に、県井は御所内にあります。洛中の茶人が好んだ名水とは、良好な水質と水量を保ち続けて土地の財産となってきた湧水、河川に対しての敬称ともいえます。

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2006年10月15日(Sun)▲ページの先頭へ
竹内栖鳳邸跡
明治から昭和期にかけて活躍した日本画家 竹内栖鳳(たけうち せいほう)の広大な邸宅跡が高台寺脇にあります。

もともと竹内栖鳳の私邸「東山艸堂」は、1300坪の広さがあり、皇族や海外政府首脳、各界著名人が数多く来訪し、文化芸術の交流の場として、一つの時代を築きました。現在では英語表記のThe SODOH となり、ガーデンウェディングに利用されています。

竹内栖鳳(1864〜1942)は,御池通油小路の料亭「亀政」に生まれ,幸野楳嶺(1844〜95)に師事し,棲鳳と号した。

明治33(1900)年日本画家として初めて洋行し,帰国後栖鳳と号した。四条派の手法を近代化し,京都画壇の重鎮となり,横山大観(1868〜1958)と並び第1回文展審査委員や第1回文化勲章受章者となりました。



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2006年09月09日(Sat)▲ページの先頭へ
サントリー山崎蒸留所
サントリー大山崎蒸留所 先日は京都と大阪の境にあるサントリー山崎蒸留所へ工場見学へ行ってきました。

京都人の私はてっきり京都にあると思っていたのですが。調べたら三島郡島本町山崎、大阪なんですね。 サントリー大山崎蒸留所 本当は隣のアサヒビール大山崎山荘美術館へ久しぶりに行くつもりだったのですが、妻がこっちがいいというのであえなく変更しました。 サントリー大山崎蒸留所 受付へ行くと大型観光バスでやってくる見学者でいっぱいです。みんなウイスキーの試飲目当てのようです。

広大な工場の敷地内には自社で開発したサフィニアやミリオンベルなどがたくさん植わっておりさながら植物園のようです。写真はサンパラソルです。 サントリー大山崎蒸留所 こちらがウイスキー館で、ガイドツアーの待合室になっています。
ちなみにサントリーの名前の由来をご存じですか?創業者、鳥井さんのさんを頭に持ってきて「さん鳥井」=サントリーになりました。そんなことだれでも知ってるってかたにはこれはどうですか。

焼き肉のホルモンの名前の由来は関西弁の「放るもん」=捨てる物から来てます。そのほかにも100円ショップダイソーは池田大作の大からきています。 サントリー大山崎蒸留所 中はファクトリーショップやサントリーウイスキーの歴史資料館のようになっています。わたしはビール党なんですが、それでも燦然と飾られていた響の50年物はどんな味わいか興味はあります。 サントリー山崎蒸留所 ウイスキーの貯蔵樽です。一見同じに見える樽も形状や樹の材質が全く異なっています。新樽は木香が強いため、原酒の熟成が早いそうですが、2回、3回と回数を重ねるごとに「樽はいきもの」練れて、上品になり、長期熟成に最適な樽になるんだそうです。

オークだけでなく、最近はミズ楢の木を使った方が、伽羅や白檀の香りがして良いと言っていました。(まるでお香みたい) サントリー山崎蒸留所 棚に飾られているすごい量のウイスキー原酒の数々です。琥珀色の濃淡は同じように見えますが一瓶ごとちがいます。寝かした場所でも味わいや熟成の具合も違いますので多彩な味を創造すべくウイスキーブレンダーが混ぜ合わせます。

なんでもブレンダーは辛い物やたばこ、冷たい物など一切がダメなんだそうです。 サントリー山崎蒸留所 工場見学は製麦→仕込み→発酵→蒸留の工程を見せて頂きます。ガイドの説明に夢中で写真を取り忘れたのが残念です。どの工程も大がかりな機械仕掛けで面白いです。 サントリー山崎蒸留所 もともと日本のウイスキーの歴史でもあるサントリー山崎はこの山崎の地を流れる伏流水が豊かであり、気候風土とも結びついています。 サントリー山崎蒸留所 最後に訪れたのが貯蔵庫です。蒸留された原酒は樽に詰められて暗い湿度の高い貯蔵庫で長い眠りにつきます。

ものすごい量の樽は年代に分けられますが、置いた場所によっても熟成の度合いや香りが違うということです。まるで京都の漬物のようでした。 サントリー山崎蒸留所ちょうど私と同じ年に作られたウイスキーの原酒を見つけました。現在、ここで作られたウイスキーはオーナーズカスクといって一樽まるごと販売されています。値段も安い物から高い物では3000万!?とマンション一部屋にも相当しますが、関東方面のバーからバンバン注文があるんだそうです。 サントリー山崎蒸留所 工場見学が終わると山崎12年と響17年を試飲させてくれます。妻は下戸なんで、なっちゃんと伊右衛門です。

どちらもハイボールやハーフロック、水も氷も山崎の水が使われていますので4杯、相当美味しく頂けました。何杯でもおかわりは自由だそうです。

以上でサントリー山崎蒸留所レポートは終了です。最後までお読み頂きありがとうございました。

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