京都人による京都案内

京都人が京都の良きところを紹介します。たまに他府県も混じります。




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2007年03月20日(Tue)▲ページの先頭へ
八坂の塔−東山花灯路2007−
八坂の塔−東山花灯路− 花灯路期間中、八坂の塔のあたりへも足をのばしてみました。 八坂の塔−東山花灯路− 法観寺、通称八坂さんは京都東山のシンボルです。 八坂の塔−東山花灯路− 私の通ってたすぐそこの小学校の窓からはいつもこの八坂の塔が見えました。ここは花灯路に限らず、週末は平時でもライトアップされています。 八坂の塔−東山花灯路− 文の助茶屋、IL GHIOTTONEを筆頭にこのあたりも店が増えました。 八坂の塔−東山花灯路− いけばなプロムナードです。期間中、花と灯を象徴するように、そこかしこに置かれた生け花、そしてライトアップ。付き物です。 八坂の塔−東山花灯路− 某陶器店の前に置かれた金属工芸の露地行灯です。陶器ではここまで切りかけません。 八坂の塔−東山花灯路− 八坂の塔を真下から望んでいます。 八坂の塔−東山花灯路− 法観寺、八坂の塔の中は以前紹介しました。589年、聖徳太子によって創建されましたが焼失。1440年、室町時代足利家によって再建されています。 八坂の塔−東山花灯路−八坂の塔の下商店街です。ここは京都でもいち早く、電線地中化に成功しています。 庚申堂八坂の塔すぐ下にある庚申堂の花灯路期間中の様子です。

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石塀小路−東山花灯路2007−
石塀小路−東山花灯路− 花灯路で彩られた石塀小路を見に行ってみました。 石塀小路−東山花灯路− 「花灯路」の期間中だけは、石塀小路も例外なく両側に行灯がズラッと立ち並んでいます。 石塀小路−東山花灯路− ご存じかとは思いますが舞妓さんのポスターには必ずといっていいほど使われる京情緒溢れる人気の小路です。 石塀小路−東山花灯路− 小路の両側には料亭や旅館、スナックが立ち並んでるのです。人気の田舎亭や豆ちゃもここにあります。 石塀小路−東山花灯路− 両側に並ぶ町家の基礎部分の石垣が石塀のように見えるのが石塀小路の名の由来といわれています。 石塀小路−東山花灯路− 長方形に敷き詰められた石畳はここも市電の軌道に敷かれていた石のリサイクルです。 石塀小路−東山花灯路−唯一石塀小路だけ京都の伝統工芸である京石工芸の露地行灯を見ることが出来ます。 石塀小路−東山花灯路− 人が多い上に狭く撮影に苦労しました。 キツネの嫁入り おまけ。
撮影中、偶然 石塀小路を横ぎるキツネの嫁入りに会いました。

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2007年03月17日(Sat)▲ページの先頭へ
青蓮院−東山花灯路2007−
青蓮院 in 東山花灯路2007花灯路期間中、京都五ヶ室門跡の一つで皇室と関わりの深い青蓮院を訪れてみました。 青蓮院 in 東山花灯路2007 青蓮院は京都東山に数ある有名寺院の中でもおすすめの寺です。

特に夜間拝観中は、ライトアップによる歴史を感じさせる楠、幻想的な庭園は佛国土を思わせる神秘的な世界が出現します。 青蓮院 in 東山花灯路2007 難は高台寺、清水寺よりも拝観料が高いところですが、見終わってみると満足度は高いです。
たくさんの納札が貼られた薬医門をくぐって境内に入ります。 青蓮院 in 東山花灯路2007歴代天皇の尊牌などが安置されている宸殿です。法要などを行うため広く、もとは東福門院の旧殿を移築されたものです。皇族ゆかりの品、孝明天皇御使用の輿が飾られていました。 青蓮院 in 東山花灯路2007宸殿から小御所へ渡る廊下にある一文字手水鉢です。

自然石の手水鉢は太閤豊臣秀吉の寄進です。三月から四月にかけては、美しく咲き誇った梅がこの手水鉢の水面に写って見事なのだそうです。 青蓮院 in 東山花灯路2007 小御所です。天明の大火によって御所が炎上した時に、後桜町上皇が青蓮院を仮御所とされた事が、粟田御所と呼ばれた所以です。 青蓮院 in 東山花灯路2007 院の中でも天皇ゆかりの場所 小御所は宮廷風の建築様式や襖絵を用いており、きらびやかさを感じさせてくれます。ライトアップされた狩野派の優美な襖絵が非常に綺麗でした。 小御所から望む相阿弥作の庭。 ここも東山を借景に、龍心の池を中心にした幽邃な池泉回遊式庭園です。 青蓮院 in 東山花灯路2007 高台寺や清水寺ほど参拝客が訪れず静かに見学できます。 青蓮院 in 東山花灯路2007 華頂殿です。華頂殿(白書院)は、大広間の客殿で、古いものではありませんが、新しい襖絵や欄間に飾られた三十六歌仙も見ごたえがありました。 青蓮院 in 東山花灯路2007 ここからの景色は有名なJRのポスター「そうだ。京都行こう」にも使われましたのでご存じの方も多いかと思います。 青蓮院 in 東山花灯路2007 竹林で覆われた境内の裏山には秀吉を祀る日吉社もあります。 青蓮院 in 東山花灯路2007宸殿前の庭です。御本尊である「熾盛光如来」を表した掛け軸「種子曼荼羅」御開帳にあわせ、青い発光ダイオードやサーチライトを用いて、蛍の光のようにチカチカと青くライトアップされています。 青蓮院 in 東山花灯路2007 青蓮院御本尊の「熾盛光如来」は光の仏と呼ばれており、光の色は「青不動」の青にちなんでのことです。 青蓮院 in 東山花灯路2007 庭の白砂上には梵の字が浮かび上がっては消え、眩いばかりの青の光はゆっくりと点灯消灯を繰り返します。 青蓮院 in 東山花灯路2007 青い光は大楠の木の植わった塀までも青く照らしていました。 青蓮院 in 東山花灯路2007 一面の苔庭の海に浮かぶ光の曼陀羅を多くのカップルが縁側に座ってじっと見つめていたのが印象的でした。

これ以上は言葉は不要かと。

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東山花灯路2007
東山花灯路2007東山山麓南へ北へ だれと歩こう春の宵

粟田口、青蓮院から、三年坂まで東山花灯路を誰と歩くと無し、私一人ぶらりと出かけてみました。 青蓮院門跡寺院 青蓮院です。大きなクスノキの巨木もこの時とばかりライトアップされています。 花灯路文人回廊 花灯路文人回廊です。青蓮院北側のあおくすの庭内を会場として京都東山ゆかりの芸術家10名の作品と歩みをパネル展示されています。 花灯路文人回廊 竹久夢二や西行、松尾芭蕉はわかりますが池大雅や富岡鉄斎なども紹介されています。 円山公園のしだれ桜 知恩院はパスして、円山公園へ入ると、有名なしだれ桜も枝桜ですがライトアップされていました。 坂本龍馬と中岡慎太郎の像 円山公園最奥にある坂本龍馬と中岡慎太郎の像です。 竹灯り・幽玄の川竹灯り・幽玄の川です。

花灯路期間中、円山公園内を流れる吉水の小川のせせらぎ一面を約1000本の青竹の灯籠で満たし、幻想的な情景を醸し出しています。 竹灯り・幽玄の川竹の筒の中でゆらゆらと揺れるろうそくの光に癒されます。 大学のまち京都・伝統の灯り展 大学のまち京都・伝統の灯り展 小川の南側では伝統の灯りをテーマに京都の7芸術系大学短大の学生による灯りの作品が展示されています。 大学のまち京都・伝統の灯り展 何日か前の京都新聞に載っていました蜜柑の輪切りを貼り付けた灯りです。 祇園閣 円山公園を抜けて祇園閣を過ぎると高台寺の華舞台です。花灯路期間中、連日、琴や踊り、ミニライブ、アカペラなど多彩な催しが開催されています。 京焼・清水焼露地行灯作品展 ここ高台寺公園では京焼・清水焼露地行灯作品展が開催されております。 京焼・清水焼露地行灯作品展 どれも約一尺ほどの行灯の透かしからもれる光、作り手のセンスによって光量や径のサイズが異なります。 京焼・清水焼露地行灯作品展少し低温で焼き緑色の釉薬が穴に埋まるほたる手の技法を生かした行灯です。 石塀小路 花灯路の行灯が置かれた石塀小路です。 二寧坂二寧坂もだいぶ様変わりしました。今の景色を夢二が見たらたいそうびっくりするでしょう。 三年坂 こちら三年坂へ帰って私の夢見月も終了です。

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いけばなプロムナード−東山花灯路2007−
いけばなプロムナード−東山花灯路2007−今年の東山花灯路も後半に入りました。二月の方が暖かかったと思える日々が続いていますが今年の人出はいったいいかほどなのでしょう。(実は心配なんです) いけばなプロムナード−東山花灯路2007−ようやく昨日16日の夜、散策に出かけられましたので、まずは道沿いのいけばなプロムナードと、円山公園の現代いけばな展をアップ致しました。 いけばなプロムナード−東山花灯路2007− いけばなプロムナード、京都いけばな協会の協力のもと、灯りと花の路沿いの10カ所に大型花器いっぱいのボリューム感溢れるいけばな作品が展示されています。 いけばなプロムナード−東山花灯路2007− いけばなプロムナードは前期が未生流中山文甫会、月輪未生流、御室流、五明流、華道本能寺、都未生流、東山未生流、甲州流、専敬流、清水流。 いけばなプロムナード−東山花灯路2007−後期が未生流(庵家)、青曙流、小松流、京都未生流、古流松藤会、専敬流、いけばな京楓流、遠州、桑原専敬流、喜堂未生流となっています。 いけばなプロムナード−東山花灯路2007−
いけばなプロムナード−東山花灯路2007−
いけばなプロムナード−東山花灯路2007−
いけばなプロムナード−東山花灯路2007− このあたりの大作は円山公園の現代いけばな展のものです。古風なもの、未来志向のもの、合計7作品の壮大な美の競演が見られます。 いけばなプロムナード−東山花灯路2007−
いけばなプロムナード−東山花灯路2007−
いけばなプロムナード−東山花灯路2007−
いけばなプロムナード−東山花灯路2007−
いけばなプロムナード−東山花灯路2007−
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2007年03月16日(Fri)▲ページの先頭へ
今井町探訪その2
今井町 江戸時代へタイムトリップできる街、 探訪今井町その2です。 今井町 今井町をご存じない方のために

今井町は1993年に重要伝統的建造物群保存地区に指定された奈良県最初の伝建地区。(最近まで奈良はここしかありませんでした)

環濠集落のなんと約500棟が江戸期の建築で、重要文化財8棟、県文化財2棟、市文化財4棟があり。現在も一般の方々が生活する、生きた町。

今井まちや館やまちづくりセンターを見た後、ここ今井町は称念寺を中心とした寺内町ということでそちらへ向かってみます。 称念寺 こちらが町の中心的な存在であった称念寺(しょうねんじ)です。江戸時代初期の建立と考えられる本堂があります。本願寺一家衆であった今井兵部富綱が開基。本堂は重要文化財であり、左端に見えるのが称念寺太鼓楼で、こちらは市指定文化財です。 称念寺 この本堂は、邸宅風な構えで門徒を収容するために外陣を広くとり、かっての繁栄がしのばれます。  近年まで荒れ放題だったそうですが屋根回りなどは改修されています。 称念寺 歴代の今井兵部の屋敷であり、明治天皇の行在所(あんざいしょ)にもなりました。浄土真宗ということもあり北陸からの観光客が多いです。 称念寺称念寺だけでなく今井町全般に云えることですが、屋根瓦の装飾が大変優れています。 今井町今井町の散策は四つ角に案内板が置かれているので大変便利で迷うことがありません。 今西家住宅 こちらが今井町で最も古い今西家住宅です。 今西家住宅 1650年創建、民家というよりも城郭を思わせる建築で 惣頭取筆頭の家格にふさわしい「八つ棟造り」 と呼ばれる建築様式です。(現在もお住まいのため公開される日が限定) 中橋家屋号 米彦 中橋家。江戸時代は米屋を営んでいました。 豊田家 豊田家は材木商で、建物は1662年創建といわれています。材木商のシンボルである「木」の字の紋が中二階正面壁に描かれています。格子状の 「虫籠(むしこ)窓」 は商家建築の一つの特徴ともなって います。 虫籠窓と厨子二階 江戸時代には、町人が武士を見下ろすことがないように、という配慮から二階建ては作られませんでしたが、その代わりに高さを制限した 「厨子(つし)二階」 と呼ばれ中二階が建てられました。 「虫籠窓」 は 「厨子二階」 の通風と明かり取りのために設けられたものです。 米谷家 こちらは旧米谷家で、屋号を『米忠』といって金具商を営んでいたのだそうです。18世紀中頃の建築といわれています。唯一内部を見学できました。 上田家 壺屋であった上田家です。1744年頃の建設と考えられています。紹介したいずれもが重要文化財、個人の住まいとして居住されています。 今井町のまちなみ 学生時代以来10年ぶりに今井町を訪れましたが、『たかだか10年なんぞなんだ』と笑うかのように江戸時代初期のまちなみは変わっていませんでした。

これからもぜひともどこぞの街のように心ないディベロッパーの手で変に観光地化されないことを祈って止みません。

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2007年03月15日(Thu)▲ページの先頭へ
蟹満寺−カニの恩返し−
蟹満寺 京都と奈良の県境にある有名なカニ伝説で知られる真言宗智山派 蟹満寺を訪れてみました。 蟹満寺山城町にある蟹満寺は白鳳時代の末期(680年前後)に創建されたと伝わる古刹ですが、現在は縮小されています。

本尊 銅造釈迦如来坐像は国宝で、足腰痛み封じの御利益があると云われています。残念ながら撮影は不可。 蟹満寺 日本昔話や今昔物語集にもでてくるカニの恩返しの話をモチーフにした彫刻が観音堂に掲げられています。金ぴかの蟹と、真っ黒な蛇が結構リアルです。このあたりの蟹ということはさわがにでしょうか。

蟹満寺は主に巳年の人のお参りが多いと聞いています。蟹の縁起にちなみ、毎年4月18日には蟹供養放生会が営まれるとか。 蟹満寺 お遍路さんでも唱えられる南無大師遍照金剛の像です。

「南無」と信じるこころを開いて、「大師」お大師さまに守られて、「遍照」他人に対しても優しさ思いやりを持って「金剛」自分自身に厳しく、そういう修行の日暮らし信仰を持ち、お大師さまと同行二人の人生の道を、幸せに向かって一歩一歩精進して参ると言う意味です。    蟹満寺悟りなき蟹だに  猶 恩を受ければ 恩を返報す 豈 人にして恩を忘る應からむや

観音像横の札です。 蟹の恩返しの話を裏付けるかのように、境内にはひっそりと観音像がまつられています。 蟹満寺かにみつる てらにあゆみを はこぶべしあまねきかどの まもりきくにも

すぐ隣には観音堂があり、「蟹の身代わり観音」と称され、厄除け、特になぜか腰痛にご利益があるということで信仰を集めています。 蟹満寺 境内はよく見ると燈籠の彫刻が蟹であったり、 蟹満寺 かわいい蟹の屋根瓦を見ることが出来ます。 蟹満寺いとけなき童の ために父母となり
あわれ給うぞ有難き南無や大悲の地蔵尊 蟹満寺鶴の恩返しならぬ蟹の恩返し、蟹満寺縁起を最後に記します。日本人なら一度は聞いたことのある話です。

蟹満寺縁起

以下は蟹満寺ホームページより引用

太古、このあたりに善良で慈悲深い夫婦と一人の娘が住んでいました。 娘は幼い頃から特に慈み深く、常に観音経の普門品を読誦して観音様を信仰していました。 ある日のこと、村人が蟹をたくさん捕えて食べようとしているのをみて蟹を買い求め草むらへにがしてやります。また娘の父が畑を耕していると蛇が蛙を呑もうとしています。

何とか蛙を助けてやりたい父は蛇に向かって「もしおまえがその蛙を放してやってくれたら娘の聟にしよう」と言ったのです。すると不思議にも蛇は蛙を放し、何処ともなく姿を消したのでした。突然のこととはいえ大変な事を言った父は、仕事も手につかず家に帰ると、ことの次第を娘に語り不本意を悔いたのでした。案にたがわずその夜、衣冠(五位)を着けた紳士が門前に現われ昼間の約束を迫ってきました。困りはてた父は嫁入りの仕度を理由に三日後に来るようにと男を帰したもののどうすることも出来ません。遂に約束の日が来ました。

雨戸を堅く閉ざして約束を守ろうとしない父親に腹を立てた男は、本性を現し蛇の姿となって荒れ狂います。娘はひたすら観音経の普門品を誦え、娘の父母は恐ろしさのあまり身を縮めているその時、いかにも麗しい温顔に輝く観音さまが現われ「決して恐れることなかれ汝らの娘は慈悲の心深く常に善良なおこないをされ、又我を信じて疑わず、我を念ずる観音力はことごとくこの危難を除くべし」と告げて姿を消しました。 間もなくどうしたことか雨戸を打つ爆音は消え、夜が明けてみると戸外には、ハサミで寸々に切られた大蛇と無数の蟹の死骸が残されていました。親子は観音さまの御守護を感謝し、娘の身代りとなった、たくさんの蟹と蛇の霊を弔うため御堂を建て観音さまを祀りました。

たくさんの蟹が満ち満ち恐ろしい災難が救われた因縁で建てられたので蟹満寺と名づけられ観音経の普門品を読誦していたので普門山と号されたのです。

以上


一寸の虫にも五分の魂とはいいますがまさかカニが助けてくれるとは。この寺へ参った以上、これからはカニを食べるのも気が引けます。

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今井町探訪その1
今井町探訪その1 京都産寧坂の重要伝統的建造物群保存地区(通称、伝建地区)に産まれた私が、奈良唯一の伝建地区、今井町を訪ねてみました。(2006年、奈良県宇陀市松山も加わりましたので、奈良の伝建地区は合計2つとなりました) かつて、「大和の金は今井に七分」といわれたほど繁栄した城塞都市へ来ると、まずそのまちなみの統一感に驚きます。一階の軒の高さや立面の意匠等、景観を左右する要因が各時代を通じてほぼ同じなのです。

建造物も西暦でいうところの1800年代でなんてのははな垂れ小僧、1700年代、なんと1600年代創建の建物でも今なお現役です。(そんな今井町の主要部は電線地中化済みです) 今井町探訪その1 今井町の見学は最初に今井まちなみ交流センター華甍へ訪れると係の方が親切に教えてくれます。華甍は左右対称に翼廊が付いた美しい明治建築で、かつての旧高市郡教育博物館や今井町役場として使われてきました。 今井町探訪その1こちらが今井町の縮尺模型です。

今井町は、戦国時代の天文年間に、一向宗本願寺の僧侶・今井兵部(ひょうぶ)によって建てられた称念寺を中心に、門徒の農民などを集めて作られた、いわゆる寺内町から始まった街です。 今井町探訪その1 東西600m、南北300mに及ぶ町の7割が江戸時代の建物で、見通しのたたない一度屈折させた通りが特色です。敵の侵入を防ぎ、遠見、弓矢、鉄砲の射通しを不可能にするためということです。

これらは門徒たち自らが、自衛のための武力を持ち、環濠をめぐらし、都市計画を実施しました。 今井町探訪その1今井町の町屋外観です。

換気扇の役割をする煙出し、通風と明かりとりのためのむしこ窓、部屋の特性に応じて太さや間隔が違う、細格子、太格子、出格子、さらに看板の役目をする壁面の紋など商家と住居を両立する工夫が垣間見れます。 今井町探訪その1 織田信長の配下となってからは、商工業都市の道を歩み、江戸幕府も一目置いた財力を誇るほどに栄え、堺と並んで自治都市として認められました。堺の豪商で茶人、今井宋久もこの地の出身です。 今井町探訪その1とりあえず百聞は一見に如かず。

云われたとおり 仏壇屋の角をまがり、町の中へ入ってみました。江戸時代の建物がほとんど残っているのはしっくいの壁がきわめて厚く、火事が起きても延焼しなかったのも理由のひとつなんだそうです。 今井町探訪その1町の中へ入ると、町並と溶け込んだ商家が多数立ち並んでいます。
上の写真は「おにみみかぜぐすり」製薬会社の看板です。 今井町探訪その1道端には、素焼きのかめが並べられ、サヤには季節の花が植えられています。 今井町探訪その1 床屋さんです。民家だけでなく、店も町の景観に沿うように作られています。 今井町探訪その1 豆腐屋さんです。その他にも醤油屋、酒屋、ギャラリーなどもありました。 今井町の古い町並み メインの称年寺や重要文化財の8家屋は今井町探訪その2で紹介しています。宜しければそちらもどうぞ。

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2007年02月27日(Tue)▲ページの先頭へ
智積院の梅
智積院の梅 東山七条にある真言宗智山派の総本山 智積院の梅も見頃を迎えています。 智積院の梅素晴らしい庭園に入らずとも、金堂への参道沿いに幾種類もの梅の木が植えられています。 智積院の梅 背丈ほどのモノもあれば見上げるほどのモノもあり。 智積院の梅どれも綺麗に剪定もされ梅の花付きが良いです。 智積院の梅 天高く突き出た枝に咲く白い梅。 智積院の梅こちら早咲きの紅梅もまだまだ見頃。 智積院の梅 よく見ると花だけでなく、枝振りにも違いが見られます。 智積院の梅 一枝に白梅と紅梅が一緒に咲く珍しいハイブリッド種を見つけました。 智積院の梅 ピンクと白の饗宴です。この梅を見て、梅は植物の中で突然変異を起こしやすい種であると書かれた記事を思い出しました。 智積院の梅今年は暖冬ですが、日吉の桜まつりまで梅の花はもつのでしょうか。 智積院の梅夏に桔梗が咲き乱れる智積院は京都の隠れた梅の名所でもあります。

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法住寺の梅
法住寺の梅三十三間堂の東側 後白河法皇のお念持仏の身代不動明王を本尊とする古刹 法住寺でも有名な枝垂れ梅が見頃を迎えています。 法住寺の梅 法住寺は、永延2(988)年右大臣藤原為光が娘の死後、その邸宅を寺とした建物です。長元5(1032)年に焼失、1世紀あまり後、後白河法皇が、出家してここを院御所として住し法住寺殿と呼ばれていました。 法住寺の梅 向かい側の蓮華王院(三十三間堂の正式名称)は、長寛元(1163)年、平清盛が造立した法住寺殿の堂宇の一つだといわれています。 法住寺の梅 法住寺の北隣、養源院、今は簡素な庭園も1ヶ月後、逆に枝垂れ桜で凄い人出となります。 法住寺の梅法住寺のシンボルとも云える竜宮門です。 法住寺の梅 竜宮門前の紅梅が今、鮮やかな紅色の花を咲かせています。 法住寺の梅 ここ法住寺門前は日当たりがいいのか柑橘系の実が実っています。 法住寺の梅山門前の白梅もすっかり満開です。 法住寺の梅 門をくぐって入ると枝垂れ梅もご覧の通り。 法住寺の梅 梅の花弁は八重、色香ともに抜群。今年の梅一等賞です。 法住寺の梅 法住寺の梅、傘が開いたような姿の下へ入るとまさに梅のシャワーを浴びるが如し。

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2007年02月23日(Fri)▲ページの先頭へ
文子天満宮
文子天満宮 京都駅近く間ノ町通り天神町にある、天神信仰発祥の神社といわれる文子天満宮へ参ってみました。 文子天満宮文子天満宮

祭神として菅原道真を祀り、洛陽天満宮二十五年社の一つに数えられている。社伝によれば 大宰府(福岡県)に左遷された道真は延喜三年(903)五十九歳で没したが、没後、道真の乳母であった多冶比文子は「われを右近の馬場に祀られ」との道真の託宣を受けたという。

しかし、文子は貧しく、社殿を建立することができず、右京七条二坊の自宅に小祠を建て道真を祀ったといわれている。

以後,天明、安政、元冶の大火で類焼したが、その都度、再建され明治に至り村社に列せられた。現在の社殿は大正七年(1918)に造営されたものである。

〜文子天満宮駒札から引用〜 文子天満宮多冶比文子(たじひあやこ)宣託の銅像です。

菅原道真公の乳母をつとめていた多治比文子は、伝説ではこの地にあった自宅庭に小さな祀をもうけ、道真公を拝んでおりました。そんなおり、天神となった菅原道真公は多治比文子に現在の北野天満宮の地にまつってもらいたいと託宣します。 文子天満宮 道真公ゆかりの牛は狛犬の代わりに一対、鳥居前に安置されています。 文子天満宮こちら本殿。 菅原の道真公を「天神」としてわが国で最初に祀った神社だそうです。もちろん学問の神様菅原道真ということで、学問成就、合格祈願で多くのかたが参られます。 文子殿本殿と併設された文子殿は良縁成就にご利益あるとされています。 文子天満宮腰掛石です。

この石は菅原道真が太宰府に左遷されるとき、乳母である多治比文子に別れを告げに来た折、腰掛けた石と伝えられています。 文子天満宮 訪れた日は文子天満宮の正面鳥居前の白梅が見頃を迎えていました。

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2007年02月20日(Tue)▲ページの先頭へ
菅大臣神社−飛梅伝説の梅−
菅大臣神社 下京区仏光寺通新町西入、その名も菅大臣町にある菅原道真を祀る菅大臣神社(かんだいじんじんじゃ)へ参りました。 菅大臣神社 神社のある菅大臣町あたりは平安の頃、菅原道真などの菅原一族の邸宅があった場所、界隈を散策すると今でもあちこちに碑が建っています。 菅大臣神社 菅大臣神社は道真が幼少のころ研学したところといい、それに因んで社殿を造営したのが起こりです。古くは天神御所または白梅殿とも云われたそうです。その白梅殿址の石碑もありました。 菅大臣神社境内には道真の産湯に使ったと言われる天満宮誕浴の井戸もありますが、現在は枯れていました。
飛梅 『東風吹かばにほひおこせよ梅の花 主なしとて春なわすれそ』

菅公が太宰府に左遷される時に詠んだ梅の花はこの地の梅だと伝えられています。 上の写真がその飛梅ですが、まだつぼみ綻ぶまでいってませんでした。 菅大臣神社 代わりに右側の枝垂れ梅が満開を迎えていました。 菅大臣神社 こちらも枝垂れ梅。 菅大臣神社 もちろん道真ゆかりの牛もいます。全部で三匹。金網で囲ってあるのはいたずら防止?それとも逃げないようにでしょうか? 菅大臣神社 本殿前の狛犬。ちょっと変わった表情と姿をしています。左足には何かの動物が絡まっていましたが頭が壊れて無くなって何か解りません。 菅大臣神社こちらが菅大臣神社の本殿です。

もとは下鴨神社の本殿を、1869年(明治2年)に移築されました。
菅大臣神社 幣殿と合わせて八棟造り、銅巻柿葺で、ずしっとした重量感があります。 菅大臣神社 是非、本殿の中をのぞいてみてください。襖や欄間など至る所に梅の花のお印が見られます。そして奥の方、北野の天神さんより美しい姿の一対の武者が鎮座してました。 菅大臣神社境内にはその他に火御子社、白太夫社、老松社、福部社、春崎稲荷社、三玉稲荷社などの摂社がありました。 菅大臣神社 由緒を感じさせる狛犬のいでたち。 菅大臣神社近くには平安時代 紅梅殿であった、道真の父・菅原是善(これよし)が祀られた北菅大臣神社もあります。

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2007年02月19日(Mon)▲ページの先頭へ
最強の鍾馗さん
最強の鍾馗さん 先日、京都の町家界隈を歩いていたときにそれを偶然見つけました。 最強の鍾馗さん 鍾馗史上、最強のもの。
今までこんな凝った細工の鍾馗様、見たことがありません。
最強の鍾馗さん その顔立ち、彼ついに木鶏たりえたり。
威風堂々とにらみを利かせる目から凄みは消え去っています。 最強の鍾馗さんヤメテー。
右手には 破魔の剣、左手に小鬼の足を掴んで持ち上げています。不自然な角度で足が曲がり、この小鬼の表情、恐怖のどん底に陥れられています。 最強の鍾馗さんしかし驚くのはまだまだ早いのです。

その鍾馗様のいる中屋根の真下には大黒天を発見。大黒天を抑えつける鍾馗?どういう意味があるのでしょうか? 最強の鍾馗さん 更にその横、なんとも涼しい顔した猫が飛び出しています。 最強の鍾馗さんこの猫にとって逆さにされた小鬼の存在など何処吹く風。

右手を挙げた姿は招き猫と思われますが、鍾馗様のおつかいはいったいネコなのでしょうか?

最強の鍾馗さんはなんと招きの猫を従えた愛猫家でした。

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長命寺−寿命長遠のご利益−
長命寺−寿命長遠のご利益−近江八幡市の北西端、長命寺山の山腹にある寺院、長命寺へ行ってみました。 長命寺−寿命長遠のご利益− ここ姨綺耶山長命寺、西国三十一番札所の霊場、名前の通り「寿命長遠」の御利益があるとされています。

その歴史はとてつもなく古く、3世紀後半から4世紀初頭の景行天皇の時代、武内宿禰(すくね)がこの山で長寿を祈ったといい、開基は聖徳太子と伝えられます。 長命寺−寿命長遠のご利益− 亀は長寿延命のシンボルということで、長命寺の石標の礎石にも使われていました。 長命寺−寿命長遠のご利益− 長命寺への杉木立の参道階段。なんと808段あるそうです。非常に急ですが、健康のため汗をかきながら昇りました。 長命寺 三門横の手水舎。寺の由緒を感じさせるほど色が変わっており何も読めません。 長命寺−寿命長遠のご利益− こちらそこから少し階段を昇った所にある三重塔。重要文化財の桃山様式。現存のものは慶長2年(1597年)に建てられたそうです。 長命寺−寿命長遠のご利益− こちらが長命寺の本堂。残念ながら社殿のほとんどは戦国時代中期に兵火で焼失したおり、こちらも大永4年(1524年)に再建されたものだそう。 長命寺−寿命長遠のご利益− 本堂には本尊で、秘仏、聖徳太子が刻んだとされる千手十一面聖観世音菩薩三尊一体が安置されています。 長命寺−寿命長遠のご利益− どうも聖徳太子ゆかりの寺、杉木立に囲まれた雰囲気は京都のそれとは趣を変えています。 長命寺−寿命長遠のご利益− 長命寺の鐘楼。重要文化財で鐘は琵琶湖の龍神が長命寺の観世音に捧げたと言い伝えられています。一般客にも鐘撞きを開放。 長命寺−寿命長遠のご利益− その他にも三仏堂、護法権現社拝殿、太郎坊大権現社などがあります。 長命寺−寿命長遠のご利益− 長命寺のある長命寺山や標高333メートル。境内からは琵琶湖を見渡すことが出来ました。

余談ですが長命寺をもう少し北へ行ったところに琵琶湖の夏の風物詩 伊崎の竿飛びの岩場があります。

御詠歌
八千歳や柳に長き命寺、運ぶ歩みのかざしなるらん



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2007年02月18日(Sun)▲ページの先頭へ
たねや守山玻璃絵館
たねや守山玻璃絵館先日、守山にある滋賀県が誇る和菓子や たねやの洋菓子部門 守山玻璃絵館で人気のケーキバイキング、私の細君が行こう行こうと云うので体験してきました。 たねや守山玻璃絵館ここ相変わらず凄い人気です。 12時頃に着いて、予約しようとしたところ、すでに一杯。3時半まで席は空かないといわれ、ビックリしました。繰り返しますが、平日12時に並んで3時半ですよ。

その間、仕方なく、私と妻は時間つぶしに五個荘へ錦鯉や近江商人屋敷を見に行きました。 たねや守山玻璃絵館約束通り3時半に戻ってきて、席に着くと案内係の人が、バイキングの説明してくれます。料金は1,890円で、ケーキ、焼き菓子はもちろん、コーヒー、紅茶、ジュース90分間、お代わり自由だそうです。
写真は一回目に取りに行ったケーキなど。 たねや守山玻璃絵館 一番美味しかったのはこちら。やはりバームクーヘンです。

たねやのものは行列が出来るほど有名でお土産によく食べていましたが、店でできたてのバームクーヘンは絶品、バニラクリームなどをかけてくれ、持ち帰りとまったく違います。

フワフワで噛まなくても舌の上でとろけていき、これを食べに来るだけでも価値がありました。 たねや守山玻璃絵館妻はチョコレート系は全部美味しいといって5回ほど取りにいってましたが、付き添い気分の男性の私にとっては甘いモノばっかりは3回が限度。

お腹いっぱい。

その日の晩ご飯はもちろん、次の日も何も食べられませんでした。

→→たねや 守山玻璃絵館

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追儺式−吉田神社−
追儺式−吉田神社− 節分の日にあたる、2月3日の前日、吉田神社では鬼やらいとも呼ばれる追儺式が執り行われます。
その時のレポート、いまさらですが本日アップさせて頂きます。 追儺式−吉田神社−当日は、妻と母と私、三人で雨を気にしながら見に行きました。

どうしても気になる参道の露店。出町のたいやきはここにも出没。しっぽまであんこ、突出した行列できていました。もう出町商店街の入り口では商売していないそうです。 追儺式−吉田神社− 吉田神社の節分といえば、福豆の景品が楽しみ。今年はなんとトヨタのヴィッツが登場。 追儺式−吉田神社−古都に春の到来を告げる火炉祭(かろさい)は3日夜11時から執り行われます。私は未だ見ず。 追儺式−吉田神社−来るのが遅くなったため、あいにく後のほうで見るはめとなりました。妻と母は結局さいごまで何も見えなかったそうです。 追儺式−吉田神社− 本殿前の拝殿ではすでに儀式が始まっております。この間、本殿などは通行規制されお参り出来ません。『20分間、古式に則って厳修に執り行うのでカメラなどは御遠慮下さい』とスピーカーでふれられます。 追儺式−吉田神社−陰陽師が祭文を読み、四方拝をすると、いよいよ鬼の登場。鬼は人間の煩悩を具現化した姿なのだそうです。 追儺式−吉田神社−吉田神社の赤鬼は「怒り」、青鬼は「悲しみ」、黄鬼は「苦悩」を表しているのだとか。「ウオー、ウオー」と金棒を振り回して大暴れすると子供は大喜び。 追儺式−吉田神社− 何周かまわるといよいよ松明を持った童子を引き連れた4つ目の正義の味方、方相氏が登場します。 追儺式−吉田神社−ゆったりとした戦いが始まり鬼を追いつめていきます。この間、妻、母はなにも見えず。 追儺式−吉田神社−最後に年男がつとめる勅使役3人が南の空、桃の木の弓で葦の矢を放つと、鬼は一目散に逃げ去っていきます。 追儺式−吉田神社− みなさん、お参りして一年の無病息災を祈り終了です。節分当日はこの鬼達が福鬼となって登場します。

この追儺式の様子は動画でもアップしていますので良かったらどうぞ。
→→吉田神社の追儺式動画

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2007年02月16日(Fri)▲ページの先頭へ
世継地蔵−上徳寺−
世継地蔵−上徳寺− 京の世継ぎさんで知られる世継地蔵のある上徳寺へ参ってみました。 世継地蔵−上徳寺−塩竈山上徳寺は、五条河原町を一筋西、富小路通りを下がった所に建つ寺です。

毎年2月8日は、世継地蔵尊大祭、柴灯護摩供が行われ、境内では酒粕汁や多幸焼(たこ焼き)の接待で多くの人が訪れます。 世継地蔵−上徳寺− 上徳寺は、もとは平安貴族たちが詩歌管弦を楽しんだ平安京河原院跡。源融の邸宅もこの近くにあったそうです。

1603年(慶長8年)徳川家康の帰依を得て、家康の息女泰栄院とその生母上徳院(阿茶の局)の菩提を弔うため、伝誉蘇生上人を開山に請じて建立した寺と言われています。

もちろんその家康側室、阿茶の局の墓もあります。 世継地蔵−上徳寺−三門すぐ右手には江戸時代の冠句の唱導者 堀内雲鼓の句碑。
日のめぐみ うれしからずや 夏木立

そしてその後には子孫繁栄を約束するざくろの木が植わっています。左横に延命長寿、吉相息災の柘榴という立て札が記されていました。 世継地蔵−上徳寺−こちら上徳寺の本堂。

本堂は1753年(宝暦3年)建立の永観堂の祖師堂を移築したものとされ、堂内には江州矢橋の鞭崎八幡宮から移したといわれる阿弥陀如来像を安置してあります。 世継地蔵−上徳寺−仏足石ならぬ佛足跡です。

お釈迦様の足跡を石に刻んだもので、インドでは御尊像のかわりに拝む大正として作られたのだそうで、インド、中国を経て、奈良時代に日本に伝来しました。 世継地蔵−上徳寺−こちらがその世継地蔵のある地蔵堂です。

中には高さ2メートルの石のお地蔵さんが祀ってあるとか。江戸時代から子授けや安産にご利益があるとして多くの人々の信仰を集めています。 世継地蔵 地蔵堂の上には子供を授かったお礼参りを描いた絵馬がびっしりと掛かっています。ひとつひとつ見ていると切実な思いに胸が痛くなってきました。 世継地蔵−上徳寺−こちらもびっしり。よだれ掛け絵馬です。
願いを書いて奉納すると子を授くといわれています。 世継地蔵−上徳寺−世継上徳寺の絵馬はほおずき。

毎年8月には厄除け大福ほおずき授与が行われ、その実を保存し、翌年の正月、大福茶を飲むときに頂くとその年の福が授かると伝えられています。 世継地蔵−上徳寺−数とり竹はお堂の廻りを祈念して回る時にその回数を数える竹で、お百度詣りのようなものです。 世継地蔵−上徳寺−御堂裏手にははがため地蔵。 世継地蔵−上徳寺−愛らしい石仏のお地蔵さんもお待ちかねです 世継地蔵 世継地蔵、縁側にはいびつな大根が置いてあり、無料でお持ち帰り下さいとのこと。ご丁寧にも手提げ袋まで用意してありました。 世継地蔵−上徳寺− 少子化の日本にあって、欲しくてもなかなか授からない人が多いのもこれまた事実。
今後、ここ京のよつぎさんこと世継地蔵はその存在感をますます増していくと思われます。

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北向山不動院
北向山不動院 京都は伏見区竹田にある『北向不動さん』こと、北向山不動院を訪れました。

このお不動さんは近畿三十六不動尊巡礼 第二十二番にあたります。 北向山不動院"" 北向山不動院は大治五年(1130)鳥羽天皇の勅願で王城守護のために北向きに創建された不動院です。

本尊、不動明王は覚鑁(かくばん、興教大師)作と伝わっており、もとは天台宗延暦寺末寺でしたが、現在は単立寺院となっております。

何度も焼失と移転を繰り返し、今の建物は、正徳2(1712)年、東山上皇の寄進により、竹田内畑町のこの地に落ち着きました。 北向山不動院こちらが本堂です。文字通り北向き、御所の方角を向いて建っています。 北向山不動院 本尊 伝教大師作不動明王坐像が、都の南にあたる為に北向きの都を守る寺として播磨国大国庄に寺領千石を賜り、北向きに安置したといわれています。 鳥羽上皇遺愛の松鳥羽上皇遺愛の松が遺されています。 北向山不動院 三門東側には左から、千手観音、虚空蔵、文殊、普賢菩薩様が4体安置されています。 北向山不動院 鳥羽上皇の誕生日正月16日には「一願の護摩」と呼ばれる大護摩が修されています。当日参詣すると一つの願いが叶うのだそうです。

御詠歌

はるばると したいきたれる きたむきざん いままのあたり おがむうれしさ

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2007年02月13日(Tue)▲ページの先頭へ
『春』を感じて。京都発、長浜行 最終便
シャーレ水ヶ浜 長浜に向かうため、シャーレ水ヶ浜を後にして、 三島池 向かった先は山東町の三島池。丁度その日は快晴のため、むこうに伊吹山が見えています。 三島池 三島池を訪れたのは25年ぶり2度目です。三島池は現在は滋賀県米原市となった貯水池で、姉川の伏流水を利用して灌漑用に作られました。

京都っ子なら、小学校の教科書で必ず『三島池のまがも』は出てくるので、当時、私もここにマガモを見に連れられた記憶があります。 三島池 ここはマガモの自然繁殖南限地として知られるバードウォッチングスポットです。雄大な伊吹山をバックにしたロケーションのもと、マガモ、オシドリ、カルガモ、ミコアイサ、サギなどの水鳥を楽しめます。 三島池望遠鏡を眺める人、家族連れも多く、地元の人の憩いの場です。 私もデジタルスコーピングやりたいです。 三島池 マガモ以外にも鵜を発見。昔、白鳥をここで見た記憶がありましたが、今日は見つけられませんでした。 三島池の野良猫 鯉や鴨にエサをやりにくる人が多いので、野良猫も飼い猫以上に太っていました。 三島池 今年は伊吹山もご多分にもれず雪が少ないようです。 三島池 雄大な自然に後ろ髪引かれながら、最終目的地、長浜の慶雲館を目指します。 慶雲館長浜の駅前近く、慶雲館に到着しました。

ここは明治時代の長浜の豪商・浅見又蔵が明治天皇の行在所として建てた迎賓館です。現在は公共の施設として利用され、今日はあの有名な長浜盆梅祭を見に来ました。

ここも実は近代日本庭園の先覚者・七代目小川治兵衛作の回遊式庭園(国指定名勝)を見ることができます。 長浜盆梅祭 長浜盆梅展は50回を超える湖北に春を告げる伝統行事です。

東浅井郡浅井町高山の故高山七蔵翁が生みの親で、昭和26年、翁より丹精込めて育て上げた盆梅を「より多くの人に見ていただき、喜んでもらえれば」と長浜市に40余鉢寄贈されたことに発します。

以来、毎年1月10日から2ヶ月間、新春の風物詩として開催、歴史・規模ともに他に例を見ない、まさに「日本一の盆梅展」として親しまれています。 長浜盆梅祭 老木に咲く満開の梅。いついつも梅の木の生命力には驚かされます。 長浜盆梅祭 屋内には梅の香りが立ちこめています。 長浜盆梅祭松の木のように梅もこんな樹形に育つのですな。 長浜盆梅祭 倒れそうになりながらも花を咲かせます。 長浜盆梅祭ここ長浜には母の実家があり、年に何度も京都と往復してる第二の故郷のようなもの、慶雲館も幾たび訪れたやもしれません。

あ、そうそう、長浜といえば、駅舎が新しくなりました。 長浜盆梅祭 早くも京都の梅も満開だそうで、次回はそちらを紹介します。

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2007年02月09日(Fri)▲ページの先頭へ
『春』を感じて。京都発、長浜行 
『春』を感じて、京都発長浜行  数日前、とても2月初旬とは思えない陽気に誘われて、京都から、長浜までさざなみ街道沿いをドライブしてみました。 なぎさ公園 一番、最初に向かった先は守山のなぎさ公園。ラフォーレ琵琶湖の前にあります。 守山市第一なぎさ公園 丁度、菜の花が見頃となっていました。ここの菜の花は「寒咲き花菜(カンザキハナナ)」という品種で、何処よりも早く咲くのだそうです。 『春』を感じて、京都発長浜行  通常は、冠雪が非常に美しい比良山連峰を対岸に一望でき、よい景色が望めるのですが、今年は雪もごく僅かです。

空が曇っており残念でしたが、一応、上の方に雪をかぶった比良山の撮影に成功しました。 『春』を感じて、京都発長浜行  なぎさ公園を後にして、さざなみ街道を北上するとやがて水郷めぐりで有名な近江八幡市へ入ります。 『春』を感じて、京都発長浜行 そこから半島沿いに沿って長命寺山へ走らすと、西国第三十一番札所 長命寺があります。名前の通り、長寿長命の御利益があるとされ、健康のため、ぜひ、参道808段の階段を昇ってみてください。 『春』を感じて、京都発長浜行  散策のあとは有名なログハウス シャーレ水ヶ浜で休憩しました。テラスに座ると、目の前に広がる琵琶湖の風景に時の経つのを忘れてしまいそうになります。 さざなみ街道本日は快晴です。こんなに綺麗な琵琶湖、久しぶりに見た気がします。 『春』を感じて、京都発長浜行  湖面の鴨たちも気持ちよさそうにしていました。 『春』を感じて、京都発長浜行  下へ降りるとアヒルもたくさんいます。 『春』を感じて、京都発長浜行  ランチは隣の山腹にある見晴らしの綺麗な料理店『ポワン ドゥ ヴェ』へ入ります。ここは昼1500円で本格フランス料理のフルコースが食べれるおすすめの店です。 『春』を感じて、京都発長浜行  さらに北上、目的地、長浜を目指します。

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2007年02月06日(Tue)▲ページの先頭へ
壬生寺節分詣
壬生寺節分詣 京都の表鬼門にあたる吉田神社の節分会を見ました折、
裏鬼門の壬生寺の節分はどんなものかいな?と思う節があり、一人で、壬生寺節分会へ詣でてみました。

壬生寺については去年秋にもレポートしております。 壬生寺節分詣京都の歳時記の一つである壬生寺の節分会は平安時代、白河天皇の発願によって始まったといわれ、900年もの永い伝統があります。

御所から向かって裏鬼門(南西)にあたる壬生寺は京都の節分鬼門詣りの一端をになっています。裏鬼門とは悪鬼が出入りする裏口といわれ、壬生寺がその鬼門をふうじているのだそうです。 壬生寺節分詣節分会では、重要文化財の本尊延命地蔵菩薩の誓願である庶民大衆の厄除け、招福を祈願して、三日間、節分厄除大法要を厳修されています。 壬生寺節分詣この日、参詣者は境内で炮烙を買って、家族や知人の年齢(数え年)・性別を墨書きし、奉納します。
壬生寺節分詣納め所ではきれいな字の方が代わりに書いてくれますが、大概の人はみんな自分で書きます。
この炮烙は、壬生狂言の演目の中で割られ、これを割ることで、その人の厄が落ちるとされています。 壬生寺節分詣 私も並んで壬生狂言を見ました。春秋と違い、この時ばかりは無料とあってさすが凄い人です。節分会の壬生狂言は13時から20時まで合計8回の入れ替え制(撮影不可、でも写真撮っている人も居たけど)

無言劇ですので、鐘、太鼓、笛の演奏のみで進み、狂言堂から次々と豪快に炮烙が落され、下に落ち割れた炮烙からは砂煙が上ってました。

壬生狂言とは京都古来の芸能として有名な狂言の一種、鎌倉時代に円覚上人(1223年〜1311年)が、仏教を民衆に分かりやすく教えようと、身振り手振りで表現したことに始まると言われています。 壬生寺節分詣本堂前です。煙を体の悪い所へさすり付けると病封じと厄が祓われると言うもので、人混みでした。 壬生寺節分詣庶民的な雰囲気の寺で、弘法さんや六角堂、革堂に似た雰囲気を感じます。 壬生寺節分詣 境内の授与所では厄を退散させる節分厄除け札、開運招福の姫だるま、起上り守、お地蔵様があらゆる困難の身代わりとなって下さる身代り守が授与されていました。 壬生寺節分詣 千本釈迦堂のおかめ福節分会をこの後、見に行こうと思っていましたが、ここでの人のラッシュに混じり込み、断念しました。 壬生寺節分詣 最後に頂いた節分詣の御札と袋です。私も清浄なところに飾り、来年、また壬生寺へこれを持って返しに行きます。

『鬼は外、福は内。ご覧の皆様に良いことありますように』

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2007年02月05日(Mon)▲ページの先頭へ
京都国立博物館 西の庭
京都国立博物館西の庭京都国立博物館には屋内に止まらず、庭園内に石造遺品などを展示されているのをご存じですか?それを歩いて廻った続きです。 馬町十三重石塔 南門から入ってすぐに建っている馬町十三重石塔です。

13世紀 鎌倉時代のもので、ここから500m北東、馬町の路地裏にもともとあったものだとか。
塚の上に南北に並んで立ち、源義経の家人、佐藤継信、忠信兄弟の墓と伝わっています。南塔には鎌倉時代後期、永仁3年(1295年)の銘文が刻まれているそうです。 石造大日如来像 石造大日如来像。

両手をおなかの前で重ねるのは胎蔵界の大日如来の特徴です。穏やかな彫り具合から平安時代後期の作と判断されています。もとは革堂、行願寺にあったものをここへ移されました。 石燈籠 二つの石燈籠。

どちらも鎌倉時代のもので、雲岩寺と舞鶴城址から伝来したものだそうです。 京都国立博物館 ロダンの像 続きはロータリーを廻って博物館の南西方面へ 金銅八角燈籠複製 奈良 東大寺にある金銅八角燈籠複製です。

大仏殿前にある本物は天平最古のもの、火ぶくろの扉に音声菩薩という天女像をすかし彫り。奈良時代の代表的な工芸品として、国宝に指定されています。 山城・丹波国境標示脊柱 山城・丹波国境標示脊柱。

江戸時代のモノで、もとは京都の西の出入り口、老ノ坂峠に置かれていた石柱です。 方広寺大仏殿所用鉄輪 方広寺大仏殿所用鉄輪。

豊臣秀吉の方広寺大仏殿の建築部材として使われました。巨大な建築物を支える太い柱をこの鉄の輪で固定。 方広寺大仏殿敷石方広寺大仏殿敷石。

桃山時代秀吉の手でこの地に建てられた大仏殿の敷石です。 東海道車石東海道車石。

車石とは江戸時代、輪石とよばれ、牛馬道の通行の便を良くするために、レールのように二列、道に敷かれていた凹状の石材のことだそうです。京都では東海道以外にも旧竹田街道沿いにもあったとか。 礎石京都国立博物館本館の敷地西南隅から出土した礎石です。 礎石 奈良市佐紀町で出土した奈良時代の礎石です。 家形石棺家形石棺は古墳時代後期、6世紀頃に作られた石の棺です。横穴式石室に納められていたのだそうです。小型石棺なので子供用だそうです。 石造地蔵菩薩坐像石造地蔵菩薩坐像は鎌倉時代のもの。 石造不動明王像石造不動明王像は室町時代作としか伝わっていません。 五条大橋 橋脚 桁五条大橋 橋脚 桁。

天正十七年(1589)、豊臣秀吉が鴨川に架けた大橋の橋脚です。 五条大橋 橋脚 桁 表面に刻されている「津国御影(つのくにみかげ)」の四文字から兵庫のの御影からはるばる運ばれてきたことがわかります。 三条大橋のものも混じっています。 礎石 小さな水たまりの出来た巨石も円形の輪っか跡から礎石とわかります。 石燈籠 鎌倉時代の石燈籠です。仏像を安置する仏堂の正面を照らしていた石燈籠としか解っていません。 キリシタン墓碑 キリシタン墓碑。

慶長年間に作られたキリシタン信徒の墓碑で、ほとんどが江戸時代に破壊され、少ししか残っていないのだそうです。石碑の正面には十字架・IHS(イエスは人類救済者という意味のラテン語)・西暦年号、洗礼名などが刻まれています。 石造阿弥陀三尊像 石造阿弥陀三尊像。

阿弥陀如来を中心に、観音菩薩と勢至菩薩を彫ってあります。平安時代後期、死後に阿弥陀の世界へ行くことをひたすら願う浄土教が流行し、多数作られました。これと似たものが安楽寿院にもあります。 京都国立博物館 正門最後は重要文化財 京都国立博物館 正門 です。(中から撮りました) 京都国立博物館いかがでしたか?展示作品を鑑賞した後は庭園の風景とともにゆっくりこれらを散策して見るのもいいかも知れません。

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2007年02月04日(Sun)▲ページの先頭へ
京都国立博物館 東の庭
京都国立博物館 東の庭連日入館者で賑わう京都国立博物館。

実は建物の中だけでなく、外の庭園にもたくさんの展示作品があります。先日は京都国立博物館の東の庭と西の庭を小春日和のもと歩いてミッシングピースを探してみました。 京都国立博物館 東の庭 博物館特別展示館真正面にあるロダンの考える人。

もちろん本物。フランスの彫刻家 ロダンは有名な考える人を多数作りましたが、その初期の作品だそうで、鋳造によるものです。考える人も本来は『地獄の門』という巨大な作品の一部分です。 京都国立博物館 東の庭 こちら京都国立博物館のシンボル赤いレンガ造りの建物です。

設計したのは宮廷建築家の片山東熊。フランス17世紀の華麗なバロック様式を取り入れて、東山の自然に調和した美しい景観を保っています。 京都国立博物館 東の庭 玄関上にある三角形の破風には日本らしく仏教世界の美術工芸の神とされる毘首羯麿(びしゅかつま)と伎芸天の像が彫刻されています。 京都国立博物館 東の庭 そして、東の庭へ。

博物館の東の庭はこの建物の右手から上がっていきます。

庭園には梅や桜、躑躅や藤など季節ごとの美しい花が咲き、季節の移ろいを感じることができます。

なかでも特に春の季節、博物館の塀から咲きこぼれるように咲く満開の桜は目を引きます。 方広寺の石垣の裏側から出土した石仏と石塔道の脇にひっそりとたたずむ石仏。

これらはすべて方広寺の石垣の裏側から出土した石仏と石塔です。 李朝時代の墳墓表飾石造遺物 東の庭では日本古来のものだけでなく、李朝時代の墳墓表飾石造遺物がたくさん展示されています。寄贈されたものだとか。 石人。これは従者などの姿。

朝鮮半島だけでなく、東アジア全般では高貴な人々の墳墓のまわりに石彫像で装飾する風習が伝統的にありますが、李朝のモノは焼きものに通じる独特の木訥とした世界感があります。 李朝時代の墳墓表飾石造遺物 石羊はヒツジの姿。来世でも食べるものに困らないようにとのことでしょうか。 宝箱 明らかに、宝飾品など金銀財宝を入れる宝箱を形取っています。 基方台 基方台は何かの礎石でしょうか。これ以外にも燈篭なども置かれていました。 堪庵そして東庭には茶室 堪庵があります。

昭和33年に美術愛好家 上田堪一郎氏から寄贈された数寄屋造りの建物です。金森宋和このみの大徳寺真珠庵「庭玉軒」を写したとされています。 堪庵堪庵母屋には八畳の書院座敷を中心として正面に広縁、左脇に玄関、裏に水屋があり、庭に面して自然と一体をなす空間。軽快な屋根の取り合わせや黒木の落ち着いた色調は桂離宮を真似たものだそうです。 堪庵母屋右側にある小間が、奥の土間から上がる三畳の茶室「堪庵」で、間取りは本勝手台目切、下座床は框を横たえた上段の構造となっています。 堪庵 平常展示館が完成した昭和41年に特別展示館南側から現在の位置に移築した際に、藁葺きと板葺きであった屋根を銅板葺きにあらため、併せて庭と水屋後方の付属屋を整えられたのだそうです。

現在は茶会、句会、香道の会などの利用に一般開放されています。 京都国立博物館東の庭に咲く梅一輪 博物館東の庭に咲く 梅一輪。

明日は西の庭を紹介します。



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2007年02月03日(Sat)▲ページの先頭へ
てんびんの里 五個荘
てんびんの里 五個荘 天秤と錦鯉の町 三方よし、近江商人屋敷の並ぶ五個荘を訪れました。 てんびんの里 五個荘近代日本経済の基礎を築いた近江商人のふるさと五個荘には白壁の蔵や屋敷が当時の風景そのままに残っています。 てんびんの里 五個荘 なかでも金堂地区は、陣屋を中心に寺院を配し、周囲に民家と塀に沿って湧き水を引いた用水路が巡らされ、悠々と泳ぐ鯉が見られます。 てんびんの里 五個荘こちら金堂地区にはいくつかの近江商人屋敷が公開されています。外村宇兵衛邸、外村繁邸、中江準五郎邸など。

京都に来て呉服商として成功を納めた方も多数います。 てんびんの里 五個荘 いずれも広大な敷地に立派な門を構え、富の象徴ともいえる蔵にも意匠を凝らしている。 てんびんの里 五個荘 稲荷社が当時の場所に残っています。その前の屋敷はテレビの撮影によく使われるのだそうです。陣屋の門が、齢仙寺(禅寺)と勝徳寺に移され山門として残っていました。 てんびんの里 五個荘 ここ五個荘では村をあげて錦鯉の泳ぐ町並みを維持しようと長年、多数の錦鯉が泳いでいましたが、近年、コイヘルペスウィルス病で壊滅的な被害を受けたとか。 てんびんの里 五個荘 残念ながら錦鯉は金堂前の堀に泳ぐ程度、激減していました。 てんびんの里 五個荘 五個荘は近江八幡ほど観光地化されておらず静かでいい町でした。駆け足で回りましたので、時間があったらじっくりと散策したいと思います。

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方相氏は鬼にあらず
方相氏は鬼にあらず 昨晩知った新たな発見を一つ。 吉田神社の追儺式
吉田神社の節分祭ポスターに大きく描かれている4つ目のこの方。
方相氏(ほうそうし)といって鬼ではないのです。

目が4つあって、頭に角が生えている鬼のような 方相氏は、鬼神様。

人間の目には見えない悪鬼(病気をもたらす疫鬼)を退散させるわれわれの味方です。恐い4つの目は、たえず四方に気を配り悪鬼の出現を許さない為のモノです。

方相氏は鬼にあらずもともと中国で信仰されていた神様で、悪鬼・悪疫を追い払うことを司る官職が熊の皮を着て、四つ目の仮面を付け、神剣を持って魔を払う、という中国の儀式。これが伝わって節分のもととなったんだそうです。

恥ずかしい話、知らなんだ。



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吉田神社の追儺式
昨日2月2日節分前日は吉田神社の追儺式(鬼やらい)を見てきました。

これはその時撮った動画です。
2日3日の夜は追い払われた赤鬼、青鬼、黄鬼が 新たに今度は福鬼となって登場します。11時からは火炉祭も行われますので今夜の方が面白いやも知れません。



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藤井彦四郎邸−近江商品屋敷−
藤井彦四郎邸−近江商品屋敷− 近江商人発祥の地、てんびんの里 五個荘へ錦鯉を見に行った時のレポートです。

ここ五個荘には近江商人の生活そのままの商家が、5件ほど公開されていましたが、時間の関係で一番規模の大きそうな藤井彦四郎邸だけ行ってみました。 藤井彦四郎邸−近江商品屋敷−こちらがその藤井彦四郎邸です。自らは京都市左京区鹿ヶ谷に住み、この家は客をもてなす別邸として、生家の隣に1934年に建てました。 藤井彦四郎邸−近江商品屋敷− 藤井彦四郎は、明治9年に三代目藤井善助の次男として北五個荘村大字宮荘に生まれ明治32年23歳で分家して明治42年に藤井糸店を創業しました。 スキー毛糸 「鳳凰印の『絹小町糸』」の販売や「スキー毛糸」の製造販売を行い、また、日本で最初に化学繊維を輸入し、「人造絹糸」として販売するなど時代を敏感にとらえて、一代で成功します。 藤井彦四郎邸−近江商品屋敷− 屋敷内には、彦四郎自身の構想による琵琶湖を模した池泉回遊式の庭園をはじめ、主屋、客殿、洋館、土蔵が立ち並んでいます。 (客殿・洋館は県指定文化財、庭園は市指定名勝、その他は国登録文化財) 藤井彦四郎邸−近江商品屋敷− こちら洋館は藤井彦四郎が洋行の際、スイスの生活に感銘を受けて再現したものだそうです。 藤井彦四郎邸−近江商品屋敷− 訪れた当日は商家に伝わる雛人形の展示がどこでもされていました。 藤井彦四郎邸−近江商品屋敷− 離れには藤井彦四郎の生家が移築されており、館内に足を踏み入れると、かつて全国を行脚した五個荘商人が行商に用いた道中合羽、旅笠、天秤棒、矢立、腰巾着など多くの資料を展示がされています。 藤井彦四郎邸−近江商品屋敷− 土蔵や展示館はには当時の生活道具・小間物類が展示され、近江商人の生活が垣間見られます。

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2007年02月01日(Thu)▲ページの先頭へ
鳥羽離宮跡を巡って 前編
鳥羽離宮跡を巡って 前編 平安時代、白河上皇が現在の伏見に造営した離宮、鳥羽離宮の跡を巡ってみました。 鳥羽離宮跡を巡って 前編鳥羽離宮は東西1.5キロ、南北1キロの敷地に苑池・各殿舎・堂塔が建ち並んでいたそうです。広大な池も含めるとその規模は現在の30万坪程にもなります。

御殿は伏見区竹田・中島・下鳥羽一帯に広がって建てられ、14世紀頃ま代々譲位後の院御所として使用されました。

南北朝の動乱で、戦火により焼失、現在は写真のピンクの箇所に南殿・北殿・泉殿・馬場殿・田中殿などの遺跡が点在するのみです。 鳥羽離宮跡を巡って 前編 鳥羽離宮は広大な自然池に南面して建てられたところが、現在の修学院離宮や桂離宮と異なるところです。

このあたりは小椋池に代表されるように、昔から桂川と賀茂川の合流大湿地帯、水鳥も飛ぶ風光明媚な場所でした。また、それを利用した離宮では舟遊び、歌合わせなどに興じ、華やかな貴族文化の中心だったそうです。

平安京の羅城門から真南にあたり、写真左手に見える大きな「鳥羽作道」(現在の国道1号線)を利用して、ここに陸揚げされた物資を運ぶ交通の要所である所は京都南インターとなった今でも同じです。 鳥羽離宮跡を巡って 前編 先日はここらあたりの史跡をあちこち巡ってみました。

まず、最初に紹介するのが有名な冠石です。

鳥羽天皇は譲位後,白河上皇が創建した鳥羽離宮に入って、殿舎や仏殿を増築します。その際この石の上に冠を置き、これを中心に造営したと伝えわっています。一説には冠をここへ埋めたとも。 鳥羽離宮跡を巡って 前編 『白河法皇 鳥羽法皇 院政之地』の石碑です。

鳥羽法皇は白河法皇の院政を引き継ぐ人物です。

ちなみに国宝鳥獣戯画絵巻の作者で天台宗の僧 覚猷(かくゆう)は厚い帰依を寄せていた鳥羽上皇が住むこの地 鳥羽離宮の証金剛院へ移り、同離宮の護持僧となったことから以後、鳥羽僧正と呼ばれました。 鳥羽離宮跡を巡って 前編 ここから近くの安楽寿院は、鳥羽上皇の御願によって東殿に建てられた御堂です。二基の塔、九体阿弥陀堂、不動堂などが附設されていました。 安楽寿院安楽寿院西側離れにある石造五輪塔です。

鎌倉時代の弘安10年(1287)の年号が刻まれています。3メートルもある堂々とした塔は鎌倉時代に阿弥陀信仰によって建立されたものです。典型的な優れた形の五輪塔として重要文化財に指定されています。 鳥羽離宮跡を巡って 前編 焼失した鳥羽離宮跡の中でも往時をしのべるのがここ安楽寿院です。また近代においては鳥羽伏見の戦で官軍の本営として使われた歴史を持ちます。 鳥羽離宮跡を巡って 前編 白河天皇陵です。

白河天皇は後三条天皇の長男で35才で僅か8才の息子 堀河天皇に譲位して上皇となりこの地で、院政をとりました。

白河法皇は1129年に77才で亡くなっていますから、堀河・鳥羽・崇徳と3代に渡って君臨したことになります。

彼が残した有名な天下の三不如意となる『賀茂川の水、双六の賽、山法師』。

逆に考えるとそれ以外はどうにでもできるほど当時絶大な権力を誇っていたことを示すエピソードです。女遊びも相当激しかったそうで、現代のどこぞの権力者にも通じるところがあります。 鳥羽離宮跡を巡って 前編 鳥羽天皇陵。

安楽寿院西側に鳥獣戯画で有名な鳥羽天皇陵はあります。籠妃・美福門院が、生み奉った近衛天皇を3歳で位につけ、後白河天皇を擁立するなど保元の乱因を作った鳥羽天皇は保元元年(1156年)、鳥羽殿において崩御されました。 鳥羽離宮跡を巡って 前編 近衛天皇陵です。

鳥羽天皇陵の南側にあり、多宝塔の周囲の森も、今は宮内庁の管轄、優美な姿が鳥羽離宮跡のなかでとりわけ引き立ちます。

近衛天皇は、3歳で即位しわずか在位14年。久寿2年(1155年)、近衛殿にて17歳の若さで崩御。この御陵建物は応仁の乱などの戦火で数度も焼失しましたが、1606年に豊臣秀頼が再建。 鳥羽離宮跡を巡って 前編 最後は『史跡鳥羽離宮 田中殿之跡』の石碑です。ここは鳥羽離宮 田中殿の跡です。

現在は田中殿公園として整備され、ゲートボールを楽しむ人で賑わっています。

まだまだ廻り切れていない鳥羽離宮の史跡がありますが、いまのところはここまでです。



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京都御所障壁画−京都国立博物館−
京都御所障壁画−京都国立博物館− 京都国立博物館の新春特別展覧会 京都御所障壁画をようやく先日見てきました。

ちょうどNHKの新日曜美術館が取り上げた後とのことで、会場は来場者で一杯でした。

今回初めて公開された京都御所障壁画とは1855年に造営された御殿の中の天皇の住まいであった御常御殿、御学問所、御三間に飾られた200面の襖絵のことです。 京都御所障壁画−京都国立博物館− 描かれた絵の内容は帝王学を学べるよう熊や虎、鷺などの動物絵から、和歌や中国の故事・漢詩を題材にしたもの。

そして宮中の年中行事を描いたものなど、どれ一つとして意味のない襖はなく、豪華絢爛、保存状態もよく、優美な宮廷文化の粋が集められた素晴らしい内容でした。

なかでも印象に残ったのは、二つ。

表紙に取り上げられている狩野永岳作の「桐竹鳳凰図」。残念ながら右側の鳳凰は剥落していましたが、鮮やかな青はとても印象的でした。 京都御所障壁画−京都国立博物館− それから山田龍淵作 王質囲碁図。

斧を持った木こりが山で迷い囲碁を打つ仙人から棗を貰い郷へ変えると数百年経っていたという絵。浦島太郎にも通じる中国の故事の愚話には同行した母も唖然としていました。

そのほかの別館の神像展(金戒光明寺の文殊菩薩騎獅像は絶品)、高台寺蒔絵と南蛮漆器も豪華絢爛、素晴らしいのでぜひ、ご覧になって下さい。

新年早々、あーいいものを見ました。



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2007年01月29日(Mon)▲ページの先頭へ
シャーレ水ヶ浜
シャーレ水ヶ浜 近江八幡の長命寺近くにあるスイス風カフェ シャーレ水ヶ浜へ先日、また寄りました。 シャーレ水ヶ浜 水ヶ浜ビーチの湖畔に立つログハウス風のカフェ。琵琶湖の景色を楽しみながら自家製ケーキや地下水でたてたコーヒーが味わえます。ちなみにシャーレとは山小屋風ということです。 シャーレ水ヶ浜店内には薪ストーブやテーブル、イスから照明までスイスの山小屋を思わせるしつらえになっています。黒姫山に住むCWニコルのサインもありました。 シャーレ水ヶ浜 その日は私が自家製カレー(900円)、 シャーレ水ヶ浜 妻がピラフ(800円)を食べました。両方とも家庭的な優しい味です。 シャーレ水ヶ浜何時来ても日当たりのいいテラス席からのロケーションは最高で、時のたつのを忘れてしまいそうになります。 シャーレ水ヶ浜 陽気に誘われてログハウスの下へ降りると、 シャーレ水ヶ浜昼寝しているアヒル達に遭遇しました。 シャーレ水ヶ浜結構たくさん、黒いのもいます。 シャーレ水ヶ浜人間に驚いたのか、 慌てて次々と湖の中へ入っていきます。 シャーレ水ヶ浜アヒルの中には冷たい水が嫌いなようで、2匹は躊躇しています。 シャーレ水ヶ浜常に団体行動をするようで、小さな水かきを高速回転。 シャーレ水ヶ浜残念。あっという間に泳ぎ去ってしまいました。 シャーレ水が浜ここシャーレ水ヶ浜にはスイスの湖畔かと思えるような空間が広がっているおすすめの場所です。

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