京都人による京都案内

京都人が京都の良きところを紹介します。たまに他府県も混じります。




[PR]



2007年08月20日(Mon)▲ページの先頭へ
玄武神社−北面の守護神は蛇のからむ亀−
玄武神社−北の守護神は蛇のからむ亀− 都の四神相応の北方の守護神、玄武を祀るその名もずばり、玄武神社へ参りました。
むかしは、玄武の亀との関係から境内の小池に亀が多く放育されていたので、「亀宮」(かめのみや)と呼ばれていたそうです。 玄武神社−北の守護神は蛇のからむ亀− これが玄武です。玄武神社の絵馬にもなっていました。亀は長寿、蛇は商売繁盛に御利益があるんだそうです。
亀は泣いているように見えますが、青い色はよく見ると牙でした。
社号「玄武」とは、王城の四守護神(青龍、朱雀、白虎、玄武)の一つで、色は黒、北面の鎮護神を意味しています。ちなみに大相撲の土俵の屋根に飾られている房はこの四神を表しています。 最近では玄武は奈良のキトラ古墳の北側壁に書かれたものが有名です。 玄武神社−北の守護神は蛇のからむ亀− 社伝によると、元慶2年(878)に文徳天皇の皇子である惟喬親王の母方の末裔にあたる大宮郷の郷士で若宮八幡宮の神職を務めていた星野市正茂光(ほしのいちのかみしげみつ)が悲運な生涯であった親王を慰み、親王愛蔵の剣を「御霊代(みたましろ)」として祀ったのが始まりとされています。 玄武神社−北の守護神は蛇のからむ亀−本殿中央に玄武の石像が鎮座ましますが、こちらは小さくてかわいい玄武でした。 玄武神社−北の守護神は蛇のからむ亀−玄武エンタープライズ株式会社 奉納による 玄武の額。
『在四方 志』、北だけでなく四方にも気を配れということでしょうか。 玄武神社−北の守護神は蛇のからむ亀−手水舎の水も玄武にちなんで亀の口から出ます。 玄武神社−北の守護神は蛇のからむ亀−毎年4月の第二日曜日には玄武やすらい祭といって鞍馬の火祭、太秦の牛祭、とともに京都の三奇祭の一つに数えられている神社の祭りが。
赤い装束を着た鬼が氏子地域を練り歩きます。 玄武神社−北の守護神は蛇のからむ亀−そのほかに境内左脇には三輪明神と玄武稲荷大明神を祭る社もあり。 玄武神社−北の守護神は蛇のからむ亀−現在の本殿は昭和38年(1963)に再建されたもの。上には神獣鏡か、大きな鏡が掲げられていました。
長寿、商売繁盛や方位厄除けの利益あり。

しかし、京に青龍神社、朱雀神社、白虎神社がなけれども、玄武神社のみ存在するゆえんは?疑問がつのります。   玄武神社−北の守護神は蛇のからむ亀−
社名の玄武は、青竜、白虎、朱雀とともに王城の四守護のひとつで、 北方の鎮護神に由来する。文徳(もんとく)天皇の皇子である惟喬 (これたか)親王を祭神とし、別名惟喬社(これたかのやしろ)とも呼 ばれている。 社伝によれば、親王愛蔵の剣を元慶二年(八七八)に大宮郷の郷士 星野市正紀茂光(ほしのいちのかみしげみつ)が祀ったのが起こり といわれる。 康保三年(九六六)勅命により、山城国で最初の鎮花祭が当社で行 われたと伝えられ、現在も毎年四月の第二日曜日に行われるこの 行事は、「玄武やすらい花」(重要無形民俗文化財)とも呼ばれ、桜 や椿で飾られた風流傘を中心に、鉦、太鼓、笛等で囃(はや)しなが ら、鬼や小鬼が付近一帯の氏子地域を踊り歩く。芸態の上では、室 町時代に流行した風流の拍子物(はやしもの)の影響を受けて今日 に伝承されているもので、芸能の変遷過程を示すものとして貴重な 存在である。
                           
玄武神社前にある京都市の駒札より引用



なにとぞ下のボタンを押して下され。続ける糧となります。
↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓
にほんブログ村 美術ブログへ
BuzzurlにブックマークBuzzurlにブックマーク この記事をクリップ!

サイト内検索はこちらから Google Custom Search
ご意見・ご感想はこちらへありがとうございます。




宗旦稲荷社−茶道を極めた狐−
宗旦稲荷社−茶道を極めた狐−御所の北側、相国寺境内にある茶道を究めた宗旦狐を祀るその名も宗旦稲荷社へ参りました。 宗旦稲荷社−茶道を極めた狐−祠は相国寺法堂の東南、黒い鐘楼の一名洪音楼とも袴腰付鐘楼ともいわれる鐘楼の横奥です。 宗旦稲荷社−茶道を極めた狐−有名な宗旦狐は江戸時代初期の話です。

相国寺の境内に住んでいた1匹の白狐がしばしば茶人、千宗旦に姿を変え、時には雲水にまじり座禅を組み、また時には 寺の和尚と碁を打つなどして、人々の前に姿を現していたずらや善を施していました。

ある時、宗旦狐は、相国寺塔頭、慈照院の茶室びらきで、点前を披露していたところ遅れて入ってきた本物の千宗旦が見てお点前の見事さに感じ入ったという話です。 宗旦稲荷社−茶道を極めた狐−実物の千宗旦は千利休の孫で三代目に当り、現代まで続いている茶道の家元、三千家を作った大茶人です。 宗旦稲荷社−茶道を極めた狐−宗旦稲荷の由来が記された駒札、半分消えかかっていました。
江戸時代の初め頃、相國寺の境内に1匹の白狐が住んでいた。その狐は、しばしば茶人、千宗旦(1578年〜1658年)に姿を変え、時には雲水にまじり座禅を組み、また時には寺の和尚と碁を打つなどして、人々の前に姿を現していた。宗旦になりすましたその狐は、近所の茶人の宅へ赴いては、茶を飲み、菓子を食い荒らすことがたびたびあったが、ある時、宗旦狐は、相国寺塔頭、慈照院の茶室びらきで、点前を披露していた。驚いたことにその点前は、実に見事なもので、遅れてきた宗旦は、その事に感じ入ったという。 これも宗旦の人となりを伝えた逸話である。その伝承のある茶室 頤神室(いしんしつ)」は、現在でも慈照院に伝えられている。茶室の窓は、宗旦狐が慌てて突き破って逃げたあとを修理したので、普通のお茶室の窓より大きくなってしまったという。宗旦狐は、豆腐屋の店先から油揚げを盗み、追いかけられて井戸に落ちて死んだとも、猟師に撃たれて命を落としたとも伝えられている。化けていたずらをするだけでなく、人々に善を施し、喜ばれていたという宗旦狐の死を悼み、雲水たちは祠をつくり供養した。それが今でもこの宗旦稲荷として残っている。
宗旦稲荷社−茶道を極めた狐−左の経典を加えた狐。 宗旦稲荷社−茶道を極めた狐−玉を加えた右の狐。 宗旦稲荷社−茶道を極めた狐−お手前のほかにも、托鉢の列に加わったり、囲碁をしていたという話もある宗旦狐、表情はちょっと恐い。。 宗旦稲荷社−茶道を極めた狐−社の御祭神はもちろん宗旦狐。茶道はもちろん商売繁盛、開運の御利益があるとされています。

なにとぞ下のボタンを押して下され。続ける糧となります。
↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓
にほんブログ村 美術ブログへ
BuzzurlにブックマークBuzzurlにブックマーク この記事をクリップ!

サイト内検索はこちらから Google Custom Search
ご意見・ご感想はこちらへありがとうございます。




2007年08月17日(Fri)▲ページの先頭へ
小文字
大文字昨晩の大文字を携帯のカメラで撮りました。なかなか思うように撮れません。
携帯の画面の小ささに肩と目がこりました。

いつもと勝手が違うとこんなもん、でもこれでいいんです。

なにとぞ下のボタンを押して下され。続ける糧となります。
↓↓↓↓↓↓
BuzzurlにブックマークBuzzurlにブックマーク この記事をクリップ!

サイト内検索はこちらから Google Custom Search
ご意見・ご感想はこちらへありがとうございます。




2007年08月14日(Tue)▲ページの先頭へ
壬生寺万燈会
壬生寺万燈会昨晩は新撰組ゆかりの地、壬生寺で開かれている壬生寺万燈会へ行ってきました。 壬生寺万燈会毎年8月の9〜16日、壬生寺では壬生寺万灯会といって本堂前に各家の先祖追善を願う灯篭が壁のように並んで奉納されています。

なんと約850年もの歴史ある伝統行事なんだそうですが、平成16年から、千体仏塔の500灯の蝋燭灯と本堂の1000灯の灯篭に従来の白熱電球に替えてLEDを導入しています。 壬生寺万燈会 千体仏塔もごらんのように。仏塔に集められた千体の石仏にも灯が入る。夕闇に浮かんだ塔は、幻想的ですがこれもLEDです。
1989年(平成元年)壬生寺創建1000年を記念して建てられた千体仏塔はミャンマーのパゴダを模しています。 壬生寺万燈会ずらりと壁面に規則正しく並べられた灯籠は壮観。 壬生寺万燈会 静かに境内を巡ります。灯籠は一つ2000円だそうです。 壬生寺万燈会本堂前の仮設舞台では六斎念仏が9日と16日に奉納されます。

六斎念仏とは六斎日(身を慎しむ日に)行う念仏のことです。特に京都の六斎念仏は、伝承の違いよって、踊りを伴う「空也堂系」と念仏だけの「干菜寺系」のものに分かれます。壬生六斎念仏も中堂寺六斎念仏も空也堂系にあたり、鉦鼓・太鼓・笛・囃子にあわせて踊る、「踊り念仏」 であり、獅子舞などの多彩な芸のある民俗芸能です。
壬生寺ホームページより引用
壬生寺万燈会水掛地蔵です。 壬生寺万燈会『先祖をそまつにする人はやがて自分がそまつにされる』
本日14日ですがもう帰省ラッシュがはじまっていると報道も。お盆くらいゆっくり過ごてほしいものです。 壬生寺万燈会手をあわせてみな拝むことで心は静かに保たれ、日常の迷いや悩みもはれてくるのではないでしょうか。
壬生寺万燈会には静かでしみじみとした日本の夏の風景が流れています。 壬生寺万燈会誰しも今あるのは先祖さんのおかげ。 壬生寺万燈会『お盆』の由来をごぞんじでしょうか。
「お盆」、正式には盂蘭盆と云い、その語源はインドのサンスクリット語の「ウランバーナ」と言う言葉がなまったんだそうです。

ウランバーナとは「逆さ吊りにされた激しい苦しみ」だそうで、この苦しみをとりのぞくのが「お盆」という行事になったされています。 壬生寺万燈会精霊送りの8月16日には水塔婆に戒名を書いて供養、壬生地蔵講による御詠歌の奉納があります。
最後に「精霊送り施餓鬼法要」が営まれ、送り火が焚かれて、精霊を送り、うら盆の行事が終わります。


なにとぞ下のボタンを押して下され。続ける糧となります。
↓↓↓↓↓↓
BuzzurlにブックマークBuzzurlにブックマーク この記事をクリップ!

サイト内検索はこちらから Google Custom Search
ご意見・ご感想はこちらへありがとうございます。




2007年08月11日(Sat)▲ページの先頭へ
宇治川も燃えた夜
昨晩の第47回宇治川花火大会です。
源氏物語ゆかりの地らしく浮舟の舞、蜻蛉の舞、平安の宴など絵巻のテーマに沿った大花火がぽんぽん打ち上がっていました。
打ち上げ場所が近かったせいか、音が大きいのはもちろんのこと、玉の破片がとんできたりも。
最後、『光源氏は永遠に』と題された1500発のスターマインです。煙すみませぬ。
今年の人出は例年より3万人多い、22万人だったそうです。

なにとぞ下のボタンを押して下され。続ける糧となります。
↓↓↓↓↓↓
BuzzurlにブックマークBuzzurlにブックマーク この記事をクリップ!

サイト内検索はこちらから Google Custom Search
ご意見・ご感想はこちらへありがとうございます。




2007年08月09日(Thu)▲ページの先頭へ
びわ湖が燃えた夜

昨晩のびわ湖大花火大会2007の映像です。
恒例の水中スターマイン。菊や牡丹が咲き乱れ、びわ湖の湖面を豪華で色鮮やかに彩ります。
クライマックス、金銀のナイアガラからのどえらいフィナーレの動画もありますが、惜しいことに100MGを超えておりアップロードできませんでした。

クリックよろしくお願いいたします。続ける糧となります。
↓↓↓↓↓↓

サイト内検索はこちらから Google Custom Search



2007年08月07日(Tue)▲ページの先頭へ
迎え鐘、六道まいり
迎え鐘、六道まいり本日早朝、迎え鐘(迎鐘)を撞きに六道まいりに行ってきました。 迎え鐘、六道まいり六道まいりで知られる珍皇寺さんの鐘は、毎年盂蘭盆に精霊を迎えるために撞くので、「迎え鐘」と言われています。(実際には撞くというより引くのですが)

鐘の音は、古来よりその音響が十萬億土の冥土にまで届くそうで、亡くなった人は その響きに応じてこの世に呼びよせられると云うことから京都のお盆の風物詩となっています。 迎え鐘、六道まいり早朝6時から始まる鐘つきの30分前には並びましたがこの人出。 京都のお盆の行事は六道珍皇寺の迎鐘から始まるといわれる通りです。 迎え鐘、六道まいり仕方なく建仁寺へ続く裏の土塀へ回らされます。 迎え鐘、六道まいり六道珍皇寺の東門。日中いけばものすごい列に並ぶこととなります。 迎え鐘、六道まいり鐘楼の周りにはひさしや床几が設けられます。 迎え鐘、六道まいり 本堂の方でも先亡の戒名・俗名を水塔婆に書いてもらう人の列が出来ています。 迎え鐘、六道まいりこれが迎え鐘(迎鐘)です。鐘は二度手前に紐を引きます。皆さん、鐘を撞くといいますが動作は引く感じです。 迎え鐘、六道まいりこの音は冥土のお精霊(おしょうらい)さんの耳にまで聞こえるそうです。
朝6時から夜11時まで。
お参りに訪れた人々が絶え間なく打ち鳴らす迎え鐘の音と塔婆を清める線香の煙とであたりは溢れます。 迎え鐘、六道まいり水塔婆を線香で浄める人。 迎え鐘、六道まいり 地蔵尊霊前にて水回向してその場に納め置く人。
そして お盆最後八月十七日には本堂前の六道の辻にて総ての水塔婆を納め法要が行われます。 迎え鐘、六道まいり十界之図とも云われる地獄絵図。此見たかったんです。 迎え鐘、六道まいり閻魔堂と小野篁堂はお盆のこの期間だけご開帳となります。 迎鐘こうして京都の人はお精霊さまをお迎えして、お盆を迎えます。


なにとぞ下のボタンを押して下され。続ける糧となります。
↓↓↓↓↓↓

サイト内検索はこちらから Google Custom Search



2007年08月06日(Mon)▲ページの先頭へ
鍾馗のこと
鍾馗さん京都の昔の町屋でよく見かける鍾馗さん、彼はいったい何者なのか考えてみました。

京都の古い町並みでよくみかける鍾馗さん、閻魔様にも似た怖い顔立ちが特徴ですが、正義の味方、その起源はこれまた中国にあるのでした。 鍾馗様中国の昔、唐の時代、時の皇帝、玄宗皇帝がマラリアにかかり床に伏せてしまいます。 そんなマラリアの高熱のなかである夢を見ました。

宮廷内で小鬼が悪戯をしてまわるが、どこからともなく大鬼が現れて、小鬼を難なく捕らえて食べてしまう。玄宗が大鬼に正体を尋ねると、「自分は終南県出身の鍾馗。武徳年間(618年-626年)に官吏になるため科挙を受験したが落第し、そのことを恥じて宮中で自殺した。だが高祖皇帝は自分を手厚く葬ってくれたので、その恩に報いるためにやってきた」と告げたそうです。

夢から覚めた玄宗は、病気が治っていることに気付きます。感じ入った玄宗は著名な画家の呉道玄に命じ、鍾馗の絵姿を描かせました。その絵は、玄宗が夢で見たそのままの姿だったので、 玄宗は、鍾馗の絵姿には邪気を祓う効力があるとし、世の中に広めさせたということです。

中国の唐から京都へは当時の交易の中心、やはり遣唐使がもたらしたのではないでしょうか。

なにとぞ下のボタンを押して下され。続ける糧となります。
↓↓↓↓↓↓
BuzzurlにブックマークBuzzurlにブックマーク この記事をクリップ!

サイト内検索はこちらから Google Custom Search
ご意見・ご感想はこちらへありがとうございます。




六道の辻界隈
六道の辻 界隈六道まいりが近づいて参りましたので六原にある六道の辻を散策してみました。 六道の辻 界隈六道の辻は東大路松原を少し西に入ったところにあります。

「西の蓮台野、東の鳥辺野」
その昔、この辺り一帯から山麓にかけては、鳥辺(とりべ)と云われ、葬送の地であったと云われています。亡くなった人を送る地、野辺送りの場所でした。
いまでも鳥辺山の地名は京都の火葬場として残っています。 六道の辻 界隈そんな六道の辻のある町名は轆轤町です。
現在では京焼清水焼の陶工が多く住むことから轆轤町となっていますが、江戸時代初期までは「髑髏町」と云われていました。
ドクロすなわち人骨が転がっている原っぱ髑髏原だったということです。 六道の辻 界隈幽霊の子育飴も活気づいてきました。以前は六道珍皇寺の少し東に飴屋がありましたが、現在は西福寺の門前に変わりました。 六道の辻 界隈六道珍皇寺と六波羅蜜寺に挟まった小寺、西福寺も六道まいりの折に忘れることができません。

小さな寺ですが、寺宝は多く、最近では大英博物館にも貸し出されました。

檀林皇后九相図絵、熊野那智曼荼羅図絵、南瞻部州附図、七難絵巻、六道十界図絵、十王図絵、洛中洛外屏風、海北有松筆布袋図。 六道の辻 界隈西福寺は弘法大師ゆかりの地蔵尊が安置されたお寺です。この地蔵尊は子育地蔵として知られ、嵯峨天皇の皇后となった橘嘉智子姫が深く帰依され、親王の病の平癒を祈願したところと伝えられています。 六道の辻 界隈円福地蔵。
このお地蔵さんの由来は「西福寺」に毎日遊びに来ていた近所の仲の良いおじいちゃんとおばあちゃんの像だそうです。 六道の辻 界隈毎夏お精霊迎えの時期には地獄極楽図、九想観図等がかけられ座敷へ上げて絵解きも行われますがこの日はまだ。 六道の辻 界隈寺の起源となった「六道之辻地蔵尊」は室町時代の弘法大師作のものです 六道の辻 界隈入り口横には頭をなでる布袋尊の石像もあり。 六波羅蜜寺続いて萬燈会を控えた六波羅蜜寺へ参りました。

なにとぞ下のボタンを押して下され。続ける糧となります。
↓↓↓↓↓↓

サイト内検索はこちらから Google Custom Search



六道まいり前日の六道珍皇寺
六道まいり前日の六道珍皇寺7日からいよいよ始まる六道まいりを前に六道珍皇寺を訪れてみました。珍しい名前ですが、はるか昔、この寺は愛宕寺(おたぎてら)と呼ばれていました。

地元の人は皆、六道さんとよんでいます。
六道さんは去年も取り上げてます。宜しければそちらもどうぞ。
→→去年の六道まいり
六道まいり前日の六道珍皇寺六道詣りで知られる六道珍皇寺は、臨済宗建仁寺派の寺です。明日早朝からは迎え鐘撞くための多くの参詣者でにぎわいますが、前日はひっそりしていました。 六道まいり前日の六道珍皇寺『愛宕の寺も打過ぎぬ。六道の辻とかや。げにおそろしや此道は、冥道に通うものなるぞ』
謡曲 熊野にも出てくる京都魔界伝説、全く恐ろしい話です。
六道まいり前日の六道珍皇寺
この付近はかつて死者を鳥辺野へ葬送する際の野辺送りの場所で、六道の辻と呼ばれ、この世とあの世の境といわれてきました。ちなみに六道とは、「地獄」、「餓鬼」、「畜生」、「修羅」、「人間」、「天上」の仏教思想の中の六世界のことです。 六道まいり前日の六道珍皇寺本堂裏手にある冥土通いの井戸です。
平安時代の官僚、小野篁(小野小町の祖父)は閻魔大王の補佐をしていたとされ、毎夜この井戸を通って地獄へ降りていたという伝説があります。 六道まいり前日の六道珍皇寺六道珍皇寺の精霊迎えは小野篁が高野槇の枝を伝って、その穂先から冥府へ通じる井戸に入ったという伝説にちなむものです。
実は六道さんのお参りには順序があります。

参詣客は、亡き人の俗名か、または戒名を書いてもらった経木に線香の煙をまぶします。それを、水槽の水に浸すか、水を掛けて、水回向をします。 それから、鐘を撞きながら故人の名を胸中に念じ、お精霊さんを冥界から呼び寄せます。そして門前や境内で売っている高野槇を購入して持ち帰えると、冥界で鐘の音を聞きつけたお精霊さんは、この高野槇の穂先を伝わって帰ってくるといわれています。

六道の辻 京都の史跡を訪ねる会 より引用
六道まいり前日の六道珍皇寺左手の閻魔堂には小野篁作と言われる閻魔大王と小野篁の木像が並んで安置されています。 六道まいり前日の六道珍皇寺こちらが小野篁。

小野小町の祖父にあたる小野篁(802年〜852年)は嵯峨天皇につかえた平安初期の官僚。武芸にも秀で、また学者・詩人・歌人としても知られる人ですが、小野篁(おのたかむら)は閻魔王宮の役人として夜は閻魔庁につとめていたそうです。各地に小野篁ご縁の神社や伝説が残っています。 六道まいり前日の六道珍皇寺こちらがその小野篁作閻魔大王の像。よく京都の情報誌に使われます。 六道まいり前日の六道珍皇寺 六道まいり前日の六道珍皇寺毎年、ここの有名な地獄絵図をみないとお盆が来た気がしません。 六道まいり前日の六道珍皇寺まだまだ準備真っ盛りというところです。 六道まいり前日の六道珍皇寺六道まいりメインの鐘楼です。
迎え鐘と呼ばれ、四方を白壁に囲まれており、外からは見えません。ひもを手前に引いて鐘を鳴らしますが、お参りの行列は門の外まで延々と続きます。

その音は十万億土に響くといわれています。 六道まいり前日の六道珍皇寺 それでは明日早朝、私も鐘をつきに並んでみます。


なにとぞ下のボタンを押して下され。続ける糧となります。
↓↓↓↓↓↓

サイト内検索はこちらから Google Custom Search



2007年08月05日(Sun)▲ページの先頭へ
北条石仏−加西の五百羅漢さん−
兵庫の加西にある有名な五百羅漢さんを石峰寺の五百羅漢を見た後、興味深く覚え、見に行って来ました。 いにしえのロマンを伝える・・・・ この兵庫県加西市北条町にある五百羅漢ですが、よその五百羅漢と違うのは「いつごろ、だれが、なんのために」といったことが一切解っておりません。 門番の巨大羅漢さん。あふれる自然の中に羅漢さんが待っています。 羅漢寺という名前の寺なんですが、地元の人には五百羅漢で呼ばれています。
広い境内には笑うがごとく、泣くがごとく瞑想する石仏群が納められています。 五百羅漢というのはあまりにも多くの羅漢という意味で500体の羅漢があるわけではありませんが、この加西の羅漢は規模の上でもかなりものです。 伊藤若冲が作ったものや愛宕の念仏寺にあるものよりも全体にスリム。アステカ文明や縄文文化の名残のような雰囲気を持っています。 偶然寺の住職にお会いしましたが、この石仏の謎は永遠の謎でいいのだそうです。もともと石仏を造立するのは亡き先霊を弔う純粋な信仰心の表れですからということです。 石彫の手法は拙いですが、さすがに石仏五百を造立するのには果てしない時間がかかり、そこに込められた悲しくも美しい澄んだ信仰心、古人の心の純粋さに現代人の私はおののかずにいられません。 笑うものあり。 傾いても割れても風雪に耐え、すますものあり。 住職曰く、どこかに自分の先祖の顔が必ずあるので探してみて下さいということです。 なかには羅漢かと見まがう物もあり。 来迎二十五菩薩が表現。 石仏だけでなく木仏もあり。
笑ったり、泣いたり、考えたり、いろんな顔で瞑想しています。 小さな小さな仲良し羅漢さん。 これは清水寺のふれあい観音と同じ物では。故西村公朝先生の作られた金色の観音さまはここにもありました。 もとは参道角角あちこちにあった羅漢さんを一纏めにしたそうです。 さびても笑う。 加西には独特の羅漢群がまっています。 色はさび、姿は風化しても現代人になにかを語りかける石仏。心静かに瞑想したいものです。


なにとぞ下のボタンを押して下され。続ける糧となります。
↓↓↓↓↓↓

サイト内検索はこちらから Google Custom Search



2007年08月04日(Sat)▲ページの先頭へ
麻田 浩展
京都国立近代美術館、心の原風景を求めて 没後10年 麻田 浩展京都国立近代美術館で開かれている心の原風景を求めて 没後10年 麻田 浩展を見てきました。

日本画家・麻田辨自を父に、麻田鷹司を兄にもつ麻田浩は文庫本の表紙画にたびたび使われる作家で、10年ほど前に竜安寺のアトリエで自殺されたことぐらいしかしりません。

全般に重いテーマの油彩画が初期の頃、パリ在中、帰国後京都市芸での教授時代の作品と続きます。一つ上の階で展示されていた父兄の作品に比べても大丈夫だろうかと思うほど限りなく暗いんです。 京都国立近代美術館、心の原風景を求めて 没後10年 麻田 浩展麻田浩は60歳のとき洗礼を受け、クリスチャンになったそうで、もっぱら鳥や宇宙、沼、月面、洪水といったどの作品を見てもキリスト教宗教画であって仏教徒の私にはかの世界へ向かわせられるような気がしました。

悩み抜く彼の心底を寂寥感漂う技法でキャンパスに写しだしている印象は甚だ深く、たびたび当惑させられました。しかし彼の技は交換不可能ゆえ、没後10年たっても後生でも残っていく。シュールレアリズムに代表される前衛芸術、すでにカチコチ堅まりつつある私の頭では理解し難かったというのが正直なところでした。

よく感動には、 見た瞬間に感じる感動と、背景を知って初めて感じる感動と、 二種類あるらしいですが、麻田浩の作品は前者にあたるのではないでしょうか。

麻田浩(1931−1997)は京都生まれの洋画家。父も兄も日本画家という家庭に育ち、同志社大学の経済学部在学中に、新制作協会の桑田道夫に師事し、31歳で画家となる決心をする。1971年から11年間パリを拠点に制作を続け、国内外で高い評価を得る。帰国後は京都市立芸術大学教授となり、1995年には宮本三郎賞を受賞するも、1997年、龍安寺のアトリエで自死。今回、画家の没後10年を記念して回顧展が開かれたもの。

なにとぞ下のボタンを押して下され。続ける糧となります。
↓↓↓↓↓↓

サイト内検索はこちらから Google Custom Search



2007年08月03日(Fri)▲ページの先頭へ
ききょうの里
亀岡にあるききょうの里も見頃を迎えています。 山紫水明の地、亀岡。明智光秀公ゆかりの谷性寺界隈には光秀の家紋である桔梗の花が咲き誇っています。 こちらが光秀寺の別名をもつ谷性寺。『こくしょうじ』と発音します。中には明智公首塚や明智山門があり。 ききょうの里だけあってここほど一面に咲く桔梗の花をみたことがありません。 その数なんと5万株だそうです。 ききょうだけでなく光秀のライバル、秀吉のひょうたんも密かに鈴なりになっておりました。 白、紫だけでなくピンクの桔梗もあり。 桔梗の花言葉、紫のききょうは気品、白のききょうは清楚、ピンクのききょうは思いは叶うだそうです。 管理されている方に聞くと少しピークを過ぎたとのことです。 八重咲きの桔梗。 珍しい八重の桔梗は花の中央に花弁が広がり、普通の桔梗に紛れて咲いていました。 京焼・清水焼専門店〜京の器や・夕庵〜



なにとぞ下のボタンを押して下され。続ける糧となります。
↓↓↓↓↓↓






愛宕神社千日参り 2
愛宕神社千日参り 2「おのぼりやす」「おくだりやす」のかけ声が響く京の夏夜、愛宕神社千日参りその2です。 愛宕神社千日参り 2 七合目休憩所。
気温の差10度、山頂付近ここまで来るとひんやりと涼しく、市内の景色が最も楽しめるゆえ、腰掛けてここまでの労をねぎらう人も多数いらっしゃいます。 愛宕神社千日参り 2 ここは柚子の里、水尾分岐。愛宕神社へは表参道口のほかに柚子の里、水尾、櫁原(しきみがはら)福王子交差点を越えて、首無地蔵からも登れるルートがあります。 愛宕神社千日参り 2水尾の別れを降りず、そのまま山頂を目指します。 愛宕神社千日参り 2ハナ売場です。ハナ売場は愛宕さんの火伏の神花樒(しんかしきみ)の売場で、神花樒はこの山の神符です。お参りをした人々が、火災を除く護符として樒をお土産にしたという言い伝えが残っています。 愛宕神社千日参り 2更に登っていくといよいよ堂々たる黒門が見えてきます。ここまで来るともう登山も終わりです。 愛宕神社千日参り 2黒門は京口惣門とも呼ばれた白雲寺の京都側の惣門です。ここから寺の境内に入ると昔は中には福寿院、威徳院、長床坊、大善院、教学院、宝蔵院という六つの宿坊が建ち並んでいました。

 もとは愛宕山、江戸時代を通じて神宮寺の白雲寺が実権を握っており、神仏習合の山でありましたが、慶応四年(1868年)の神仏分離令によって白雲寺は破却。この黒門は、境内各所に残る今はなき白雲寺の伽藍の一部です。ちなみに京口に対して丹波口の門もあったそうです。 神社への石垣、常夜灯や灯籠跡がつづくなだらかな参道。 右京消防署防災本部になっている現在の社務所、実はここはあの明智光秀が本能寺の変、直前に連歌の会を催した愛宕百韻の威徳院のあった場所です。 『ときは今 あめが下しる さつきかな』

有名な光秀の詠んだ句、『ときは今』の『とき』は自分の血流の元である土岐氏をさしていると云われています。

明智光秀は本能寺の変、数日前の天正10年(1582年)5月下旬、愛宕山に参詣し愛宕五坊の一つである西坊威徳院で連歌を興行します。発句を光秀が詠み、脇句を威徳院の行祐法印、第三句を連歌師の里村紹巴がつけた。全九名で100韻を詠み(愛宕百韻)、書き留めた懐紙を神前に捧げました。

詳しくは司馬遼太郎の国盗物語をご覧下さい。
急に階段がきつくなり、趣のある巨大な燈籠を皮切りに提灯や常灯が並ぶ空間が続きます。 右脇に愛宕神社とついに見えました。横にある末社に目もくれず更に登っていきます。 31日午後9時、愛宕山千日参りが一つのクライマックスを迎える頃です。 夕御饌祭(ゆうみけさい)といって山伏によるゴマ焚き神事あり、そのあとに弓取り式が待っています。その弓を拾うと幸せになるとかで9時頃になると参道階段は人でごった返します。私の友人も何年か前、この弓を取りました。 楽吉などの千家十職をはじめ提灯に記された蒼々たる面々。 そのあともひたすら急な階段をのぼります。 京都市最高峰の霊山、愛宕大神に到着。 愛宕神社社殿では御札を買う人、荷を解く人、山頂への到着を喜び携帯電話をかける人でごった返します。 とりあえず、本殿へお参り。京都府内はもとより全国から老若男女参拝者が集まってきています。 実は千日詣が最も盛り上がるのは翌8月1日午前2時のことです。

本殿にて朝御饌祭(あさみけさい)といって人長の舞奉奏、鎮火神事あり、このころ数万人の参拝者で境内参道は埋め尽くされます。私は翌日仕事があるので見たことがありません。 そのあと、右手で御神酒を頂きます。
本殿には欄間や鐘灯籠などにイノシシが描かれており、愛宕神社のお使いはイノシシだということです。さすれば大豊神社の狛鳶はあれはなんだったのかと更に疑問に感じました。 最後に明智光秀に習っておみくじを引くのを恒例としています。明智光秀は二度、三度とこのくじで吉兆を占い信長を討つべきか迷ったそうですが、私は一度しか引きません。 愛宕神社千日参り 2今年のこの花咲みくじ開いてみるとみごと大吉でした。 続々と上がってくる参詣客とすれ違いながら、山を駆け下りるように下山1時間。(遅く登ってくる人は御来光を拝むのだとか)
表参道口一の鳥居あたりではすっかり暗くなっていました。 行灯がともされた清滝川の渡猿橋。川のせせらぎ、カエルの鳴き声がつんざきます。 愛宕神社千日参り 2帰宅後、窯と台所に有名な愛宕さんの『火迺要慎』(ひのようじん)の御札を貼って一年の無事を祈りました。

火事などおこしませんことを


京焼・清水焼専門店〜京の器や・夕庵〜



なにとぞ下のボタンを押して下され。続ける糧となります。
↓↓↓↓↓↓






2007年08月01日(Wed)▲ページの先頭へ
愛宕神社千日参り 1
愛宕神社千日参り火伏せの神、1300年の歴史を誇る愛宕さんの総本宮、愛宕神社千日参り、今年も無事完遂しました。

夕方7時頃から登りはじめ降りてきたのは10時頃です。千日回峰のように下りは飛び跳ねるように降りました。 愛宕神社千日参り振り返って、8時、9時となると如何ほどシャッタースピードを落としても電球の明るさでは真っ暗にしか写らず、少し早めに登りはじめて良かったです。

写真は七合目休憩所から見た京都南の景色です。肉眼では京都タワーが小さく見えました。 清滝トンネル前夜7時。トンネルから先へは一般車は通行止めになっており、左横の駐輪所にバイクを止めて登山開始。 愛宕神社千日参りまずは京都の心霊スポット、清滝トンネルを見ながら左手の試峠を登っていきます。

試峠は試坂とも呼び、愛宕山に登れるかどうかまず試みる峠のことからそう名付けられています。有名な古典落語 『愛宕山』は簡単に登れると大口を叩いた男が、おしりを押してもらってようやく試峠を登り切り、まだ愛宕山には登ってすらいないことに仰天する話です。

確かにこの試峠があるために愛宕山登山をあきらめる人がいるほど、アップダウンの激しさは苦痛です。 愛宕神社千日参り清滝トンネルを越えると市バスの停留所があり、ここから下り坂となって清滝川のほうへ向かいます。 愛宕神社千日参り清滝川は愛宕参詣の宿場清滝を流れる川です。もともと伊勢の五十鈴川と同様、愛宕さんに参る前に身を清める水垢離場でした。京都市内では珍しいゲンジボタルやカジカガエルの生息地でもあります。 愛宕神社千日参り清滝川横には東海自然歩道になっており、密かに京都一周西山コース1番の標識が建てられていました。 愛宕神社千日参り渡猿橋。
清滝川の清流を渡る渡猿橋は愛宕山への参道に架けられた橋です。この辺り、嵐山モンキーパークのある岩田山があるとおり、昔は猿がたくさん出没したことからそう名付けたと思われます。 愛宕神社千日参り清滝口参道前にある京焼・清水焼 窯元智楽。ここは中でうどんなどの軽食も食べさせてくれ、中は手塩皿、京都弁で『おてしょ』が綺麗に陳列してあります。

それから今年から残念なことにトマトやスイカ、焼きそばなどの屋台はゴミが出ることから一切禁止となりました。。 愛宕神社千日参り表参道登山口 一の鳥居です。ここから50丁、約4.5qの道のりです。

鳥居の横には幻の愛宕ケーブル清滝駅跡があります。愛宕鉄道は、昭和4年に開業した、嵐山駅から清滝駅までの平坦線3.4キロと、清滝川駅から愛宕山頂駅までの鋼索線(ケーブルカー,2.0キロメートル)から成る鉄道です。昭和19年に廃線になりましたがあちこちに軌道の跡が残っています。 愛宕神社千日参り今年から道にはこういった標識が立っており、便利になりました。 愛宕神社千日参り消防隊と一緒に登っていきます。 愛宕神社千日参り有名な水飲み場、お助け水です。もっと上の方で欲しいところですが、お茶を持参していますので通り過ぎます。 愛宕神社千日参り現在の愛宕山登山、道は結構広いです。 愛宕神社千日参り火燧権現跡(ひうちごんげんあと)。
昔、京洛に火事が起これば同時に鳴動する社があったそうで、目前のほんまもんの瓦はかわらけなげに使ったとか聞いたことがあります。 愛宕神社千日参りそれから、この1300年の歴史を持つ愛宕神社千日参りですが、よく小さな赤ちゃんを背負って登る人を見かけます。これは『三歳までに愛宕神社に参拝すれば、一生火難に遭わない』という言い伝えによるものです。 愛宕神社千日参り十八丁目あたりの坂は壷割坂と呼ばれています。
昔、愛宕山では宇治のお茶を山頂に貯蔵して江戸幕府へ献上していましたが、ある時そのお茶壷を割ってしまったところからその名前が付きました。 愛宕神社千日参り二十五丁目、目線の先には茶屋跡の石垣が見えてきました。 愛宕神社千日参りその昔、愛宕山参詣道にはいくつもの茶屋宿があったそうです。ちょうど二十五丁目、神社まで半分の距離にある茶屋は『なかや』といって「おしんこ」が有名だったとか。 愛宕神社千日参り大杉大神まで来ると急に道は平坦となります。朽ちた大杉に注連縄が巻かれ祀られた巨木。この辺りから南斜面を緩やかに横断するようになり、立派な杉並木が続く緩やかな気持ちの良い道が続きますが、 左手は崖、一歩踏み外すとえらいことになります。実はこのずっと下には柚子の里、みずおがあります。 愛宕神社千日参り火伏せの神さん、愛宕神社への道も半分が過ぎました。ここまで来ると京都市街の眺望が素晴らしいです。




京焼・清水焼専門店〜京の器や・夕庵〜



なにとぞ下のボタンを押して下され。続ける糧となります。
↓↓↓↓↓↓






2007年07月31日(Tue)▲ページの先頭へ
赤れんが博物館
赤れんが博物館ワールドブリックミュージアム、舞鶴にある赤れんが博物館を訪れました。
舞鶴市には明治34年の旧海軍舞鶴鎮守府の開庁に伴い、海軍が建設した赤れんがの建物が多く残されています。 赤れんが博物館この博物館もその一つで、1903年(明治36年)に旧海軍の魚雷庫として建てられたレンガ造りの建物を戦争が終わった現在はレンガのテーマパークとして利用しています。 赤れんが博物館一階部分は世界のレンガの歴史と世界四大文明の遺跡や、万里の長城など建造物のレンガを展示。フォロロマーノやサンピエトロ大聖堂、倫敦ブリッジなど世界遺産ばかり並んでいました。 赤れんが博物館古くはインダス文明のモヘンジョ・ダロやエジプト文明から新しくはドイツのアウシュビッツ収容所やベルリンの壁まで一見同じように見えても各国で独自の進化、独自の積み方を遂げているのが一目でわかります。 赤れんが博物館木造王国、日本へはれんがは、中国大陸から伝わりました。当初は、仏教関連の建築材料として使用も明治・大正にかけて欧風文化の影響を受け、日本国内で様々なれんが建造物が建築されるようになりました。

日本の東京駅が、オランダのアムステルダム駅をモデルにして建造されたということは御存知の通りです。東京駅でもアムステルダム駅と同じように赤れんがが使用されました。 赤れんが博物館 二階展示室には日本にある明治時代の赤れんが建築がそこで使われているレンガとともに紹介されており、京都のは三つ紹介を受けていました。 赤れんが博物館琵琶湖疎水 水路閣。 まず京都で明治時代の赤レンガ建築と言えばこれでしょう。

千年の都がおかれていた京都ですが、明治維新になると首都が東京に移されます。このままでは京都の活力が失われることを危惧した京都の町が近代化の原動力にと建設したのが琵琶湖疎水という運河でした。滋賀県の琵琶湖から水をひいた疎水は、今でも水力発電や水道用水として利用されています。 赤れんが博物館同志社 礼拝堂。

近代日本を代表する日本人の1人、新島襄がキリスト者として自らの信念に基づいて開学した学者が同志社でした。彼は日記にれんがは泉南で焼かれた物が最も良いと残しています。そのレンガを用いて作られた代表格が同志社礼拝堂です。そのれんがには十字架の刻印が入っている物もあります。 赤れんが博物館京都 中京郵便局。

京都は日本を代表する古都ですが、反面もっとも近代化に積極的な都市でもありました。このため数多くの伝統建築がならぶ市街地に、全く新しい赤れんがの建物が入り込んでくることがありました。この建物は旧京都郵便電信局として建てられましたが、1978年昭和53年、保存改修工事が行われ、現在に至っています。 赤れんが博物館もっとも目線を日本海の向こうにむけると日本軍が旧満州に残してきたレンガ建築にも素晴らしい物が多いです。 赤れんが博物館満鉄本社ビル。長春、大連、台湾、韓国など支配が及ぶところには本土にもないような巨大建造物が残され、あるものはすでに破壊されました。 赤れんが博物館また館内にはレンガの製法と一緒にホフマン窯ことホフマン式輪窯が再現されています。 赤れんが博物館 よく京都新聞に取り壊し云々がいわれているホフマン窯は赤レンガの町 舞鶴を語る上でなくてはならないものです。
舞鶴市西神崎にある神崎煉瓦ホフマン式輪窯ももとは1897年に、舞鶴軍港建設に必要なれんがを登り窯で焼いたのが始まりです。 赤れんが博物館ホフマン窯とは  リング状の窯で輪環窯ともいい、隣接する焼成室に火を順次周回させて焼成しますので、鎮火のロスを防ぎ、大量のれんがを連続して焼き続けることができます。ドイツ人のホフマンという人が考案したのでこの名がつけられています。

 ホフマン窯は、昭和30年頃には全国で57基を数え、月間焼成能力は2000万個をこえるほどでした。しかし、その後、現在のれんが製造の主流となっているトンネル窯が普及し、今日わが国では全国で4基しかありません。 赤れんが博物館赤れんがは人間の身近にある「土」を使って作ることができるため、世界各地で最も古くから使われてきた建築材料です。

ここまで見ると和風洋風そのどちらがいいのか悩みます。
日本の四季の温度や湿度に適応した木造建築も確かに良いですが、風雪を経たレンガは重厚で独特の古色がもつ雰囲気をかもし出していました。

京焼・清水焼専門店〜京の器や・夕庵〜



なにとぞ下のボタンを押して下され。続ける糧となります。
↓↓↓↓↓↓






2007年07月28日(Sat)▲ページの先頭へ
熊川宿−若狭街道の宿場町−
熊川宿−若狭街道の宿場町−京都と若狭を結ぶ交通路、鯖街道、若狭街道の宿場町である熊川宿を訪れました。 熊川宿−若狭街道の宿場町−こちらも産寧坂地区同様、福井では重要伝統的建造物群保存地区の選定を受け、熊川宿の修景整備が行われています。すでに電線の地中化に成功しています。 熊川宿−若狭街道の宿場町− 熊川宿−若狭街道の宿場町− 熊川宿−若狭街道の宿場町− 熊川宿−若狭街道の宿場町− 熊川宿−若狭街道の宿場町− 熊川宿−若狭街道の宿場町− 熊川宿−若狭街道の宿場町− 熊川宿−若狭街道の宿場町− 熊川宿−若狭街道の宿場町− 熊川宿−若狭街道の宿場町− 熊川宿−若狭街道の宿場町− 熊川宿−若狭街道の宿場町−

京焼・清水焼専門店〜京の器や・夕庵〜



なにとぞ下のボタンを押して下され。続ける糧となります。
↓↓↓↓↓↓






2007年07月27日(Fri)▲ページの先頭へ
舞鶴引揚記念館
舞鶴引揚記念館戦争の悲惨さと平和の尊さを伝える舞鶴引揚記念館を訪れました。

1988年、外地からの引揚に関わる一連の資料を展示する日本唯一の施設として、
引揚者用の桟橋が設置されていた平地区を見下ろす丘にある引揚記念公園一角にあります。 舞鶴引揚記念館 先日、久間防衛相は「原爆投下はしょうがないな」発言で辞任に追い込まれましたが、実は彼が最も云いたかったことはきちんと伝わっておらず、真意はここ引揚記念館にある気がしてなりません。

原爆投下翌日、突然、日ソ中立条約を一方的に破棄し侵攻したソ連軍によってシベリアへ強制連行された日本人50万人、彼らの現地での生活をご存じでしょうか。極寒のシベリアの地では原爆被爆者とは異なる苦しみがまっていました。 舞鶴引揚記念館第二次世界大戦終結にともない海外に残されていた日本人は660万人以上と言われています。これらの方々は日本の敗戦と同時に速やかに帰国しないといけなくなり、呉や浦賀などの軍港に13年間にわたって引き揚げてこられました。 舞鶴引揚記念館なかでもシベリヤから引き揚げてこられた方から知らされた現地生活の過酷さは見るに堪えられないものです。写真は収容所(ラーゲリー)です。現代の北朝鮮に思いをはせます。 舞鶴引揚記念館零下の世界、黒パンや薄いお粥だけの生活、集団生活のなかで夜は南京虫との戦いがあったそうです。 舞鶴引揚記念館白樺の木を剥いで紙とし、すすを集めてインク、缶詰の空き缶で作ったペンで筆記した史料です。 舞鶴引揚記念館舞鶴港での息子の帰りを待つ岸壁の母、端野いせさんは中村玉緒主演で映画化されました。 舞鶴引揚記念館舞鶴港での引揚の様子です。祖国へ今、帰る、にほん だもい。

舞鶴では、引揚船が入港するたびに市民こぞって引き揚げて来られた方々を心から歓迎し、慰問し、勇気づけました。 舞鶴引揚記念館宇野宗佑首相、三波春夫さん、佐藤忠良さん、齋藤邦雄さんなども引揚体験者です。 舞鶴引揚記念館召集令状。通称 赤紙です。
どれほど同情はできても、これが手元へ届いた時の気持ちは実体験者でないとわからないものがあります。 舞鶴引揚記念館悲惨な戦争で犠牲となられた数多くの人々の体験を知ると言葉もありません。

憲法第9条の根底が揺らいでいる折、ここ舞鶴引揚記念館を訪れると、多くの先人たちの苦難の歴史の上に現在の日本があることをあらためて見つめ直す必要を感じました。

京焼・清水焼専門店〜京の器や・夕庵〜



なにとぞ下のボタンを押して下され。続ける糧となります。
↓↓↓↓↓↓






明通寺−嶺南の田村麻呂伝説−
明通寺−嶺南の田村麻呂伝説−福井県小浜市にある真言宗御室派 明通寺。

ここは平安初期の806年、征夷大将軍、坂上田村麻呂が蝦夷征伐において自らが殺した蝦夷やその首長アテルイへの弔いの思いを込めて創建した寺です。 明通寺−嶺南の田村麻呂伝説−およそ1200年の歴史を誇るここ明通寺は、松永川の上流に位置する杉木立に囲まれた古刹でした。
私は明通寺は田村麻呂が縁で来ることができましたが、西国札所でもなく、普通は山奥深すぎて知ることはなかったかと思います。 明通寺−嶺南の田村麻呂伝説−西暦806年の大同元年創建、三年坂が大同三年ですから、田村麻呂が没する弘仁2年の811年まで精力的に各地を巡回したことがうかがい知れます。 明通寺−嶺南の田村麻呂伝説−長い階段をあがり、三門をくぐると苔生したままの庭、古いままの伽藍に度肝を抜かれました。 明通寺−嶺南の田村麻呂伝説−ある人は古色蒼然、この言葉を用いて明通寺を形容していましたが、天橋立の成相寺さんによく似ている印象を持ちました。また福井県の建造物の国宝は二つしかなく、そのいずれもここ明通寺にあるのです。 明通寺−嶺南の田村麻呂伝説−延暦の昔、この山中に一大棡樹(ゆずり木)あり、その下に世人に異なる不思議な老居士が住んでいた。たまたま、坂上田村麿公、、ある夜、霊夢を感じ、老居士の命ずるままに天下泰平、諸人安穏のため、大同元年(806年)このところに堂塔を創建し、居士また棡の木を切って、薬師如来、降三世明王、深沙大将の三体を彫って安置したと伝う。

爾来,1180年、つねに天下万民の祈願所として、法燈たえることなし。現在の堂塔は、中興頼禅法印の再建にかかり、地方にありながら中央のものにも劣らぬ優秀な密教建築である。
明通寺略縁起より引用
明通寺−嶺南の田村麻呂伝説−田村麻呂は自身が捕虜にしたアテルイの助命を朝廷に求めますが、許されずアテルイの首は打たれ晒された。その後806年、田村麻呂は不思議な老居士の命ずるところ、この地に自分が殺した人たちへの弔いの思いを込めて創建した。

たとえフィクションであっても美しき話です。
明通寺−嶺南の田村麻呂伝説−これが山号の由来となった棡木(ゆずり木)です。ゆずり木、譲り木とも深い意味合いの漢字で表されます。 明通寺−嶺南の田村麻呂伝説−国宝の本堂、三重塔が見えてきました。そして寺の僧からお声がかかり、本堂での説教を受けることとなりました。
「己が身に引き比べて、殺すな、殺させるな、殺すことを見逃すな」とはブッダの言葉深し。 明通寺−嶺南の田村麻呂伝説−国宝の明通寺本堂。

鎌倉時代正嘉2年(1258)の棟上げ、文永2年(1265)の供養になる。建立以来の修理については、寛政11年(1799)内陣を拡張したことが墨書で知られています。
密教本堂としての五間堂は、この明通寺の本堂が唯一の例、しかもその歴史は古く、鎌倉時代(1258年)に建てられたもので華美な装飾なく、質実剛健。正面五間・側面六間の入母屋造(いりもやづくり)・桧皮葺(ひわだぶき)の建物。 明通寺−嶺南の田村麻呂伝説−外観前面は五間とも蔀になっていて、軒下の蟇股など和様の建物です。内部は、梁間六間の中央に菱格子欄間と格子戸の間仕切りを入れて、内陣と外陣に分けていました。苔生した単層入母屋造りの桧皮葺の稜線がなだらかで美しかったです。 明通寺−嶺南の田村麻呂伝説−内陣には、薬師如来坐像を本尊、左脇侍に降三世明王立像、右脇侍に深沙大将を安置、いずれも藤原時代の国重要文化財です。 明通寺−嶺南の田村麻呂伝説−左に見えるも明通寺、国宝三重塔。鎌倉時代(1270年)に建てられたもので、高さは約22メートル。本堂と三重塔が現存する中世密教寺院で、最古の例、 各層回縁付きで、組物は各層ともに三手先であり、細部には大仏様が取り入れられています。 明通寺−嶺南の田村麻呂伝説− 明通寺−嶺南の田村麻呂伝説− 明通寺−嶺南の田村麻呂伝説− 明通寺−嶺南の田村麻呂伝説−

京焼・清水焼専門店〜京の器や・夕庵〜



なにとぞ下のボタンを押して下され。続ける糧となります。
↓↓↓↓↓↓






2007年07月25日(Wed)▲ページの先頭へ
真宗興正派 本山興正寺
真宗興正派 本山興正寺京都は下京区堀川通七条上ル、西本願寺さんの隣にある興正寺へ行っていました。 
写真は堀川通りに面した興正寺の三門です。
真宗興正派 本山興正寺真宗興正派 本山興正寺。興正寺は、長く本願寺に属していましたが、明治9年に本願寺から分かれて、一派を成したお寺です。 真宗興正派 本山興正寺 三年坂にも真宗興正派の別院(親鸞上人の御骨が収まる本廟で、全国門徒の総納骨所です) があり堀川七条の本山興正寺が前からずっと気になっていたのです。 真宗興正派 本山興正寺こちら宗務所。 真宗興正派 本山興正寺鐘楼。
安永3年(1774)桃園天皇の忌にあたり、皇太后恭礼門院から梵鐘と共に寄進されました。 真宗興正派 本山興正寺興正会館。
研修施設や宿泊施設などがあり、本山へ参拝される方々の歓談の場として利用されています。 真宗興正派 本山興正寺少し離れた駐車場横に婦人会館もあり。 経蔵経蔵。
嘉永元年(1848)建立の経蔵はみかげ石の欄干を巡らして、中には経典が納められています。 真宗興正派 本山興正寺経蔵のむこうに西本願寺の飛雲閣が見えています。豊臣秀吉の聚楽第の遺構ともいわれています。 真宗興正派 本山興正寺御影堂。
明治45年(1912)再建。幅33m、奥行き41m、高さ28m。中央に親鸞聖人のご真影を安置しています。 真宗興正派 本山興正寺御影堂の中は真新しく、正面に見真と額がかかっています。 真宗興正派 本山興正寺阿弥陀堂。
大正4年(1915)再建。中央に阿弥陀如来像、左右に七高僧、聖徳太子の御影を安置しています。 真宗興正派 本山興正寺真宗興正寺派の本山興正寺。

西本願寺の南に隣接しているため、西本願寺の巨大さの影で目立ちませんが、本山だけあってすべての建物に歴史が備わっていました。

京焼・清水焼専門店〜京の器や・夕庵〜



なにとぞ下のボタンを押して下され。続ける糧となります。
↓↓↓↓↓↓






夏、大豊神社
夏、大豊神社京都も平年より五日遅れで梅雨明けしたそうです。 夏、大豊神社今日は哲学の道にある、狛犬ならぬ狛ネズミのいる大豊神社を行ってみました。
去年も大豊神社アップしてあります。よければそちらもどうぞ。

写真は哲学の道沿いにある大豊橋右脇灯籠の札。春に訪れれば、見事な早咲きの桜が咲きます。 夏、大豊神社干支が子(ねずみ)になる来年、ネズミのいる大豊神社は護王神社のようにさぞ人気となるかと思います。 夏、大豊神社狛ねずみで有名すぎる大豊神社、阪神の大豊選手は「たいほう」でしたが、ここは「おおとよ」と発音します。 夏、大豊神社ここも縁結びの神様なんだそうです。 夏、大豊神社梅雨を終え、すっかり参道の草木も深まっていました。 夏、大豊神社参道脇には普通に狛犬がいました。 夏、大豊神社灯籠の掘りには鹿。 夏、大豊神社椿ヶ峰のご神水。
神社の背後には森と山が迫り、この辺り一帯を椿ケ峰と云います。椿ヶ峰のご神水で大いに豊かにお清め下さいと書かれていました。実際、境内には椿の木も数多いです。 夏、大豊神社本殿右横の絵馬堂?上の写真。雪をかぶったり、椿を頭に載せた写真など、狛ねずみはとりわけ人気です。 夏、大豊神社円山公園の三代目しだれ桜の姉妹木。栗塚旭献木とありますが、氏は映画俳優さんです。 夏、大豊神社 神主のみこと。祈 貴家弥栄
聡明にして勤勉なる福狛ねずみにあやかり、健康、長寿、福徳をお祈りいたしますとのことです。 夏、大豊神社本殿左奥。まずは小さな愛宕社と日吉社が並んでいます。 夏、大豊神社狛猿。鬼門や災難除けの猿ももとは日吉神の使いです。 夏、大豊神社愛宕社を 鎮るのは狛鳶です。トンビが愛宕社の神使いとのことでしょうか。 夏、大豊神社 稲荷社。ここは普通にお稲荷さんの神の使いである狐がいます。 夏、大豊神社 そして縁結びの神・大国主命(オオクニヌシノミコト)を祀ったその右横、大国社です。 本来なら狛犬が鎮座している場所に、 なんとも愛らしいネズミ達が。

古事記で大国主がスサノオの計略によって焼き殺されそうになった時に鼠が現れて助けたという説話からネズミは大国主のお使いとなりました。 夏、大豊神社豊穣・薬効を表す水玉を抱える狛ねずみ。 夏、大豊神社この狛ねずみは子宝の意味を持っています。 夏、大豊神社巻物を抱えた狛ねずみ。 こちらは学問成就を表しています。大国主が縁結びの神様なのでここに来れば一通りの願いが叶いそうです。 夏、大豊神社そして狛ねずみ両方よく見ると口の開閉が。なんと小さくても阿吽の姿をしています。 夏、大豊神社泉屋博古館近くの哲学の道、大豊橋を渡った大豊神社。
人気も少なくここは何時来てもほのぼのと楽しませてくれます。
ねずみ歳の私は、年末また訪れたいと思います。

京焼・清水焼専門店〜京の器や・夕庵〜



なにとぞ下のボタンを押して下され。続ける糧となります。
↓↓↓↓↓↓






2007年07月24日(Tue)▲ページの先頭へ
スターマイン

播州の八朔まつりのクライマックス花火大会の一こまです。
京焼・清水焼専門店〜京の器や・夕庵〜



なにとぞ下のボタンを押して下され。続ける糧となります。
↓↓↓↓↓↓






石峰寺−伏見の五百羅漢さん−
石峰寺−五百羅漢さん−夏の刻、京都は石仏、五百羅漢で有名な伏見深草の石峰寺を訪れました。 石峰寺−五百羅漢さん−石峯寺とも表される石峰寺ですが、読み方は「せきほうじ」で統一されています。

百丈山と号し、黄檗宗に属する。宝永年間(1704〜11)万福寺の千呆和尚の創建と伝え、度重なる災禍により堂宇を焼失し、現在の本堂は昭和六十年(1985)に再建されたものである。 羅漢さん本堂背後の山には石造釈迦如来像を中心に、十大弟子や五百羅漢、鳥獣などを配した一大石仏群がある。これは、江戸時代の画家伊藤若冲(じゃくちゅう)が当寺に庵を結び、当寺の住職密山とともに制作したもので、釈迦の生涯を表している。
なお、境内には、若冲の墓及び筆塚が建てられている。

 また、門前より少し西へ行った所にある古井戸は、古くから名水として知られ、「茶椀子(ちゃわんこ)の水」と呼ばれて茶の湯に愛好されている。

駒札より引用
石峰寺−五百羅漢さん−ここは稲荷山にかかっているのか小高い丘に立っており、眺めもきれいです。
石峰寺寺山町から見た伏見界隈。
石峰寺−五百羅漢さん−参道を上がり左手に墓地を見ながら竜宮造りの赤門をくぐり抜けると、 石峰寺−五百羅漢さん−そこは盛夏。 オニユリ南天並木、桔梗やオニユリが咲いていました。 鈴鹿野風呂の歌碑春風に五百羅漢のとはれかほ 
鈴鹿野風呂の歌碑。

1971年に亡くなった高浜虚子門下の京都出身の現代作家です。野風呂は京都生まれで本名を登。京大卒業後虚子に師事し俳誌『京鹿子』を主宰する。 石峰寺−五百羅漢さん−参拝料300円を払い、団扇片手に本堂へ。異国情緒漂う卍のあの空間。 石峰寺−五百羅漢さん−われもまた落葉のうえに寝ころび 羅漢の群に入りぬべきかな
吉井勇
石峰寺−五百羅漢さん−宇治の萬福寺に似ているのは黄檗宗の禅道場であるからです。 石峰寺−五百羅漢さん−真新しい本堂の本尊は薬師如来。 石峰寺−五百羅漢さん−江戸時代の画家、伊藤若冲の墓。

この寺を有名にしているのは奇才、伊藤若冲が10年の歳月をかけて裏山に釈迦の誕生から涅槃までの一生とともに五百羅漢像をつくったことによります。 石峰寺−五百羅漢さん− 京都の青物問屋に生まれた伊藤若冲したが、禅に心を寄せ、生涯を独身で通しここに草庵を結んでいました。

五百羅漢参道の入り口にある朱色の竜宮門。
石峰寺−五百羅漢さん−竹藪の中は蚊が多いです。 石峰寺−五百羅漢さん−この奥に五百羅漢が広がっています。 石峰寺−五百羅漢さん− 伊藤若冲が下絵を描き、石工に彫らせたもので、釈迦の誕生から涅槃までの一生が表されています。 石峰寺−五百羅漢さん−五百羅漢というのはたくさんの羅漢さんという意味で実際500体あるわけではありません。 五百羅漢出山の釈迦。 石峰寺−五百羅漢さん−来迎諸菩薩。
主役は羅漢ではなく、あくまでも羅漢は釈迦の一生の物語の脇役といった感じです。 石峰寺−五百羅漢さん−清水焼などのやきものでもよく見かけますが、羅漢は七福神とは異なります。
釈迦の説法を聞き世人より供養される者、釈迦入滅後その教えを広めた数多の賢者のことです。 石峰寺−五百羅漢さん−釈迦と十八羅漢。 石峰寺−五百羅漢さん−説法。釈迦、文殊、普賢。 五百羅漢釈迦の托鉢修行。 五百羅漢諸羅漢座禅屈。 石峰寺−五百羅漢さん−最後は賽の河原。

素朴にして表情豊かなその姿ははなはだ人間味あふれさせ、見ていて飽きることがありません。

京焼・清水焼専門店〜京の器や・夕庵〜



なにとぞ下のボタンを押して下され。続ける糧となります。
↓↓↓↓↓↓






晴明神社の桔梗
晴明神社の桔梗陰陽師の安倍晴明を祀ってる所で有名な晴明神社の夏です。 晴明神社の桔梗夏には晴明桔梗印、五芒星にちなんで植えられた5角形の桔梗が花盛りとなります。 晴明神社の桔梗平成15年の御鎮座千年を記念して、境内に1500株の桔梗が植えられています。 晴明神社の桔梗こうしてオミナエシやススキ、秋の七草を見ると2007年、今年の夏は終わったのかと勘違いしそうです。 晴明神社の桔梗最初に見つけたのは大鳥居の右脇。 晴明神社の桔梗青や白の桔梗が咲き誇っていました。 晴明神社の桔梗桔梗に止まる小さなカマキリを見つけました。小さな自然さえあれば都会でも生息可能なのですね。 晴明神社の桔梗千利休屋敷跡の道路を渡るまでの右側の草むら。ここも桔梗が満開です。 晴明神社の桔梗最後に本殿左横、桔梗苑。 晴明神社の桔梗 顕彰板に沿って桔梗の花が並んでいます。 晴明神社の桔梗残念ながら日が傾いているので西日が強く美味く撮れませんでした。 晴明神社の桔梗背丈の長さをもてあまし倒れるもの。 晴明神社の桔梗 あるものは木の柵にもたれかかるようにぐったり。 晴明神社の桔梗最後に桔梗苑の顕彰板に来年の干支子にちなんだ話を見つけましたので紹介します。

晴明公の好敵手として知られているのが、蘆屋道満です。ある日、晴明公と道満は、何れの法力が優れているかを競い合いをします。夏蜜柑16個を長持ちの中に入れて蓋をして、中を言い当てるというゲーム。道満が夏蜜柑であるというと、晴明公は鼠が16匹という。皆が晴明公負れたりと思い中をあけると、術の力で中は鼠にかえられていました。 晴明神社の桔梗桔梗で彩られる晴明神社の夏、そんな桔梗の花ことばは誠実、永遠の愛だそうです。

京焼・清水焼専門店〜京の器や・夕庵〜



なにとぞ下のボタンを押して下され。続ける糧となります。
↓↓↓↓↓↓






2007年07月21日(Sat)▲ページの先頭へ
奈良町探訪 その2
奈良町探訪 その2歴史の横顔に出逢える奈良町へ。

奈良燈花会、
奈良大文字送り火、
春日大社万燈籠、
東大寺万燈供養会。

こういった案内を奈良で頂くと、この夏の盆の終わりは京都を離れていっそ奈良へ行ってしまおうかなと思ったりもする訳ですが、残念ながらお盆は繁忙期で暇ありません。 奈良町探訪 その2今西家書院をでて奈良町そぞろ歩きを再び開始します。 奈良町探訪 その2奈良町物語館。

こちらではまちづくりに携わる人々が集い、交流し、町を楽しくする情報発信基地としてオープンしました。

なかは昔のまんまです。伝統的な町家を修復した公民館みたいに感じました。 奈良町探訪 その2奈良には奈良晒をはじめ、酒、墨、武具、団扇、法論味噌、奈良漬などの名産を売る商家の町家を生かしたお店が多いのは今井町と同じです。

写真は漢方薬やさん。江戸時代からつづいているのかどうか知りませんが。 奈良町探訪 その2蚊帳を売る店。
懐かしい蚊帳も今は暖簾として転用されているようです。 奈良町探訪 その2 奈良町に残る蚊帳の店はここ一軒だけ、蚊帳目の圧迫感なく間仕切りできる透け具合が暖簾に転用して人気だそうです。 奈良町探訪 その2そのほかに奈良町にはアートスペースとして長屋を改造、共同で情報発信しているならまち工房のような町家も多数ありました。(吹きガラスやとんぼ玉、ハンドメイド雑貨など) 奈良町探訪 その2前回は奈良町に棲む鍾馗さんの写真を載せましたが、同じくらい猿の人形や猿をかたどったものを多数見かけます。 奈良町探訪 その2 見ざる、云わざる、聞かざるですが、ここ奈良町にはその先がありました。確か、食べざる、寝ざるだったか?詳細は忘れました。 奈良町探訪 その2赤ん坊の猿をつれるもの。釣りをしている猿の糸先にはなんとくくり猿がかかっています。どの猿も表情豊か、物語があります。 奈良町探訪 その2そして奈良町のほとんどの家の軒先にあの赤いお猿のぬいぐるみがぶらさがっています。

京都の八坂から来た私にとっては八坂の庚申さんのくくり猿かと思いましたが、意味合いがちょっと変わっていました。。

こちらのくくり猿は体内にいる「三尸の虫」が庚申の日の夜、寝ているうちに天帝に悪行を告げ口されても「身代わり猿」がいてくれるというもの。そのほかに魔除けの意味で、家の中に災難が入ってこないように吊るし、災いを代わりに受けてくださることから「身代り猿」とよばれているそうです。 奈良町探訪 その2いずれもこれは奈良町に庚申堂があり、江戸時代からの庚申信仰が深きことに由来しています。ここの庚申堂は奈良町七庚申の一つで、中の本堂には恐ろしい形相をした「青面金剛像」が安置されています。 奈良町・庚申堂 文武天皇の時代、疫病が流行り、四天王の僧が仏の加護を祈ってると、青面金剛像が現れて「汝の至誠に感じて疫病を払ってやる」と言い残して消えて、疫病は治まり、その感得の日が「庚申の年の、庚申の月の、庚申の日」だといわれています。 奈良町探訪 その2 また庚申信仰の深い地域では、石川五右衛門が庚申の日に産まれているので、その日妊娠したり産まれた子は盗人になると言われています。

ちなみに庚申の月に子どもが生まれた時、金へんのつく名前をつけると、福徳が授かるとかで、庚申の日に生まれた夏目漱石は本名「夏目金之助」と言うそうです。 奈良町探訪 その2奈良オリエント館は奈良町にあって異色の建物。奈良市唯一のFM局ならどっとFMやギャラリー、喫茶店、アンテナショップなどの楽しめるスペースがあります。 奈良町探訪 その2かな書の第一人者杉岡華邨の杉岡華邨書道美術館。古い町並みに溶け込んだ落ち着いた白い建物が目印です。

これらの建物も奈良町の今の姿です。 奈良町探訪 その2奈良市立史料保存館。ここには江戸時代の元興寺や御霊社の地図、古文書などが公開されています。 奈良町探訪 その2ならまち格子の家。
ここでは奈良町の町家の生活様式に触れることができ、先人の生活の知恵を知ることができます。 奈良町探訪 その2昔は家の間口の広さで税が課されたので、入口部分は狭く、その分、奥へ細長く延びる造り、要はウナギの寝床になっています。 奈良町探訪 その2家の中の随所に先人の工夫。

屋根は切妻平入りで、背の低い厨子2階が多く、道に面してばったり床几。

虫籠窓があったり、格子部分は外部からの目隠しに、さらに通風と採光を考えた中庭の吹き抜けや、収納を兼ねた箱階段など京町家と共通する部分も多いです。 奈良町探訪 その2独特の内部は通り庭に沿って部屋が並び、土間にはおくどさんがあり、柱は吹き抜けの上まで通って、ここもまた通し柱型の町家でした。 奈良町探訪 その2ならまち格子の家内部には、18世紀に流通した蓋付き磁器碗で有名な奈良茶碗が多数飾ってありました。高台が広く体部が直線的に開いた形の碗は江戸で流行った奈良茶漬けを食べるに最適だったとか。

この奈良茶飯には諸説あります。
奈良の興福寺や東大寺などでつくられた茶飯のこと、
飯碗に豆腐汁、煮豆などをそえて出した一膳飯のことで、江戸では明暦の大火(1657)後、浅草の浅草寺門前にこれを売る店ができたのが最初で、料理茶屋の祖となったと言われています。 奈良町探訪 その2最後に元興寺小塔院。
元興寺の寺内町、奈良町のあちこちに大寺であった頃の遺構が残っており、かつての繁栄が偲ばれます。

残すものと捨てるもの、観光地化、非観光地化、奈良の下町、奈良町(ならまち)も変化の荒波にもまれていました。

京焼・清水焼専門店〜京の器や・夕庵〜



なにとぞ下のボタンを押して下され。続ける糧となります。
↓↓↓↓↓↓






2007年07月20日(Fri)▲ページの先頭へ
奈良町探訪 その1
奈良町探訪 その1奈良猿沢池の南側に広がる町屋の面影を残す町、奈良町を訪れました。 奈良町探訪 その1奈良町をご存じない方のために。

猿沢池の南に位置する奈良町は、古代の平城京の外京と呼ばれた場所で、元興寺の旧境内を中心とした迷路のような町には江戸から毎時にかけての昔の町屋の面影が残っています。
また奈良町は『ならまち』と発音し、行政地名として奈良町はありません、また伝統的建造物群保存地区でもありませんが、何代にもわたって受け継がれてきた生活文化や知恵が、宝物のように光を放っています。 鍾馗 そして個人的には奈良町と言えば鍾馗さん鍾馗京都の中屋根と違って屋根のてっぺんに堂々と載っているのでうっかりすると見落としてしまいます。
左の小さな人形は鍾馗さんですが、右は煙抜き。
かまどの煙を抜くための窓として町屋にはつきものの構造です。 奈良町にも『鍾馗』さんに守られている家が実に多いです。それも京都では見かけない鍾馗像ばかり。 鍾馗京都以外にも鍾馗があることが嬉しいです。(むしろ奈良町の人には京都にも鍾馗があるのかと逆だろうが) 鍾馗同じ奈良でも今井町にはなかった鍾馗さんを奈良町ではこんなにも多数見かけるのはどういう訳でしょうか。 鍾馗京都と同じ空気がする数少ない町、それが奈良町なのです。 奈良町探訪 その1京都から車で1時間、まずは、ならまちセンター駐車場に留めて、まずは中心ではなく、外堀、からめ手から。 奈良町探訪 その1興福寺の鹿を眺めながら目的の南側の猿沢池へと向かいました。 猿沢池の七不思議猿沢池と奈良町。そして猿沢池の七不思議。

猿沢池の水は、決して澄むことなくまたひどく濁ることもない。水が流入する川はなくまた流出する川もないのに、常に一定の水量を保っている。亀はたくさんいるが、なぜか蛙はいない。なぜか藻も生えない。 奈良町探訪 その1猿沢池のほとりにある釆女神社(うねめじんじゃ)は、帝の寵愛が衰えたことを嘆き悲しんで入水した釆女を慰めるために建てられたました。

ちなみに芥川竜之介の小説「竜」は、猿沢池から雲を呼び雨を降らせながら竜が天に昇ったという伝説を素材にしています。 奈良町探訪 その1興福寺五重塔が水面に影を映す、奈良を代表する景観の一つ猿沢池にまつわる話はたくさんあり、猿沢池七不思議標として石碑がたっています。 奈良町探訪 その1そして奈良町の中心となる元興寺へ。

元興寺は6世紀末、蘇我馬子により建立された日本最古の寺といわれる法興寺(飛鳥寺)が平城遷都により奈良に移り、元興寺と名を改められた寺です。
現存する建物は極楽堂と禅室のみですが、ともに国宝。
極楽堂と禅室屋根の一部には日本最古の飛鳥時代・奈良時代の瓦が今もなお使われており、収蔵庫には様々な国宝や重文が保存、平成10年に世界遺産に登録されました。
もともとは猿沢池の南方に広大な寺地を持つ大寺院でしたが、中世以降しだいに衰退して今のような景色となりました。 奈良町探訪 その1奈良町はこの元興寺界隈をまとめて呼ぶときの通称で、地図には掲載されていませんのでご注意を。 奈良町探訪 その1もと平城京の外京であったため、細い路地が入り組んだ不思議な空間には神社仏閣が多いです。 奈良町探訪 その1十輪院。

十輪院は元正天皇の勅願寺で元興寺の子院です。ドイツの建築家ブルーノ・タウトが称賛した十輪院の本堂は国宝に指定されています。 奈良町探訪 その1奈良町を代表する建物、今西家書院は入母屋造軒唐破風付きと、切妻造檜皮葺きの優美な建築で、室町時代の書院造りの遺構です。 奈良町探訪 その1永く興福寺大乗院家の坊官を努められた福智院氏の居宅を大正十三年に今西家が譲り受けました。一説には大乗院の御殿を賜わり移建したとも伝えられています。

昭和12年には、京都の二条陣屋、大阪の吉村邸と共に民間所有の建造物として初めて国宝の指定を受けました。 奈良町探訪 その1日本の文学史上有名な白樺派の文豪・志賀直哉が『今西家』の「離れ」に住んでいたことがあった縁で、ここ今西家書院には、武者小路実篤、梅原龍三郎、柳宗悦夫妻、河井寛次郎、棟方志功など文人・芸術家が集まるサロンの様相を呈していた時期もあったそうです。



京焼・清水焼専門店〜京の器や・夕庵〜



なにとぞ下のボタンを押して下され。続ける糧となります。
↓↓↓↓↓↓






2007年07月19日(Thu)▲ページの先頭へ
祇園祭、雨の宵山
祇園祭、雨の宵山雨の中、祇園祭の宵山行って参りました。 祇園祭、雨の宵山祇園祭と私。

学生時代、あれはよその町内の祭り、彼女もいない私はわざわざ芋洗いのような人混みに飛び込んで行くことはないと思い、祇園祭から一時離れている期間がありました。

近年、妻帯者になって、葵祭も時代祭も興味を待たない他府県出身の妻が毎年行こう行こうと誘う、ここに祇園祭、他の京都の祭りにない魔力を見せつけられてる気がします。 祇園祭、雨の宵山 今年の宵山も残念ながら雨、空いているだろうと予想して行きましたが、日取りも良くえらい人出でした。 祇園祭、雨の宵山一番の人混み、長刀鉾の風景。
くじ取らずで毎年山鉾巡行の先頭を進み、長刀の刃先は御所と八坂神社の方へ向かないよう取付けられているのはご存じの通りです。

子供の頃は、三年坂から両親に手をひかれ、テクテクとここまで歩いてきて帰るの繰り返し。今はなき、あやきでおもちゃを買ってもらうのがなにより楽しみでした。 祇園祭、雨の宵山私が昨年登った鉾、月鉾。
見事な懸を持つ鉾は透明のビニールシートを、山はブルーシートがかかっているものも多数ありました。 祇園祭、雨の宵山函谷鉾。まずは四条通りに集まった鉾の前で写真を撮りました。 祇園祭、雨の宵山池坊短期大学東門側にある鶏鉾。
中国古代尭帝の時代、天下がよく治まり訴訟用の太鼓(諌鼓)も用がなく苔がはえ、鶏が宿ったという故事により、その心をうつしたものといわれています。 祇園祭、雨の宵山船鉾。
見事な舳先の金色のげき(空想上の瑞鳥)や天井画がライトアップされきれいでした。 祇園祭、雨の宵山北観音山。
豪華絢爛、もっとも好きな鉾です。 祇園祭、雨の宵山南観音山、どちらも楊柳観音像を祀っています。 祇園祭、雨の宵山山や鉾の写真はそこそこに、あとは祇園祭周辺の景色を撮りました。霰天神山は火除の神様です。 祇園祭、雨の宵山あめ細工やさんは各種露店のなかで一番の人気でした。 祇園祭、雨の宵山宮崎県知事は京都でも人気。 祇園祭、雨の宵山某縮緬細工や本店です。 祇園祭、雨の宵山外国産クワガタを売るお店。 祇園祭、雨の宵山祇園祭、別名鱧祭り、そして屏風祭り。
この時期、山鉾町の旧家・町家が、秘蔵の屏風や掛け軸などを飾って公開しておりました。 祇園祭、雨の宵山見事な鎧や甲冑。後ろの千羽鶴の屏風も素晴らしかったです。 祇園祭、雨の宵山坪庭の向こう座敷では食事されていました。 祇園祭、雨の宵山月下狼図。 団扇豪華絢爛な団扇の数々。 祇園祭、雨の宵山常日頃閉まっている室町の町家がここぞとばかり公開しています。 祇園祭、雨の宵山これは浄妙山。
平家物語の宇治川の合戦を題材に 三井寺の僧兵・筒井浄妙と一来法師の先陣争いをあらわしてます。 祇園祭、雨の宵山京都に産まれて良かった。
こうして今年の祇園祭、雨の宵山は終わりました。 祇園祭、雨の宵山翌日の山鉾巡行を見に行ったのは云うまでもありませんが、遅かったので場所が悪くきれいに撮れませんでした。
写真は長刀鉾の辻まわしの様子です。

京焼・清水焼専門店〜京の器や・夕庵〜



なにとぞ下のボタンを押して下され。続ける糧となります。
↓↓↓↓↓↓






2007年07月16日(Mon)▲ページの先頭へ
明通寺の鯉

なにとぞ下のボタンを押して下され。続ける糧となります。
↓↓↓↓↓↓

サイト内検索はこちらから Google Custom Search



2007年07月15日(Sun)▲ページの先頭へ
法金剛院の蓮
法金剛院の蓮蓮の寺で有名なJR花園駅前の法金剛院、見頃のこの季節、観蓮会にいって参りました。 法金剛院の蓮関西花の寺第十三番、 五位山 法金剛院。
極楽浄土を再現した名勝指定の回遊式庭園、大賀ハスや王子ハスをはじめとした約90種、色とりどりに咲き競っています。 法金剛院の蓮蓮も睡蓮と同じように日が昇る頃にはしぼんでしまうので早朝7時に参上です。
ここは庭には仏足石をはじめ青女の滝、仏殿には重要文化財に指定されている阿弥陀如来坐像、十一面観世音菩薩、同厨子など見所が多いです。 法金剛院の蓮 向こう岸が隠れてしまうほど、法金剛院庭園の池の蓮、大きく成長しておりました。 法金剛院の蓮 池の中の蓮は赤と白の2種類ほど、鉢植えの方に珍しい種類が多く植わっているのは三室戸寺と同じです。 法金剛院の蓮咲いたすぐの蓮の花、特に香華がするのか昆虫も誘われて周りを飛び回っています。 法金剛院の蓮 蓮の見頃はもう少し先のようでしたが、早朝にも関わらず人でいっぱいでした。 法金剛院の蓮 蓮はもともと蜂巣(はちす)と言う言葉が短くなって蓮となったそうです。(蜂巣とは中心の黄色の花床にたくさんの穴があいていて蜂の巣に似ていることから) 法金剛院の蓮この清楚な色合いが好きです。 法金剛院の蓮 桃程の大きさの白蓮。 法金剛院の蓮赤蓮の蕾。 法金剛院の蓮大きな蓮の葉にたまった滴。
これだけ撥水性が強ければ鳥獣戯画のカエルも笠に使うはずです。 法金剛院の蓮アジサイや桔梗、菖蒲の花も咲いていました。 法金剛院の蓮散り際も。こじんまりした睡蓮と違い蓮はすべてがダイナミックだと思いました。 法金剛院の蓮蓮がこんなに生い茂っても鯉は生きていました。 法金剛院の蓮アジサイと言えば三千院、まだ間に合うでしょうか。 法金剛院の蓮ここは極楽でしょうか? 法金剛院の蓮 法金剛院の蓮水面からすらりと茎が伸びて、その先に蕾や花が咲いている。 法金剛院の蓮 法金剛院の蓮牡丹の花と見まがうほどのものもあり。 法金剛院の蓮これぞ蜂巣。 法金剛院の蓮 法金剛院の蓮 法金剛院の蓮 法金剛院の蓮 法金剛院の蓮堂内には蓮写真館。 法金剛院の蓮 法金剛院の蓮 法金剛院の蓮 法金剛院の蓮 法金剛院の蓮極楽に咲くという蓮の花は清楚で、しかも華麗で、俗世に穢れた心を清めてくれました。

京焼・清水焼専門店〜京の器や・夕庵〜



なにとぞ下のボタンを押して下され。続ける糧となります。
↓↓↓↓↓↓






2007年07月14日(Sat)▲ページの先頭へ
天得院の桔梗
天得院の桔梗東福寺の塔頭のひとつ、天得院まで桔梗を見に行ってきました。

天得院は 臨済宗東福寺の塔頭で、文英清韓長老が住持のときに、方広寺の鐘名を撰文しましたが、「国家安康、君臣豊楽」の文字が徳川家康の怒りを招き、寺が取りこわされた話は有名です。
現在の堂宇は天明9(1789)年に再建されました。 天得院の桔梗天得院さんは有名な通天橋を拝む臥雲橋をぬけた所にあります。 天得院の桔梗東福寺保育園も経営されている天得院さん、この季節だけ特別に桔梗を愛でる特別拝観と申して日没後、夜間ライトアップもやっておられます。 天得院の桔梗天得院南庭の桔梗、見事なまでに満開でした。 天得院の桔梗 天得院の桔梗苔むした枯山水庭園の緑にに、紫と白の可憐な花が彩りを添えています。 天得院の桔梗石のしたしさよしぐれけり。

さほど広くはない堂内が観光客でいっぱいです。みなさん、お庭へ下りることはできないので、縁側から身を乗り出して撮影されていました。 天得院の桔梗南庭に咲くだけあってあちら向いている物も多いです。 天得院の桔梗手水鉢にはアジサイと桔梗の花。 天得院の桔梗写真はほころぶ寸前のバルーンフラワー(桔梗の花)ですが全体的に庭園内はほぼ満開でした。 天得院の桔梗桃山時代に作庭された美しい苔に覆われた枯山水庭園に咲く桔梗の花。密集具合はここがナンバーワンでした。 天得院の桔梗華頭窓から望む西庭の桔梗です。 天得院の桔梗精進料理 桔梗膳なるものもあり。 天得院の桔梗筆塚とその前の白桔梗。 天得院の桔梗その石碑の足下にある白磁の鶴の置物達。 天得院の桔梗東福寺塔頭、天得院、「桔梗の寺」としても有名ですが、秋には紅葉も楽しめますョ。

京焼・清水焼専門店〜京の器や・夕庵〜



なにとぞ下のボタンを押して下され。続ける糧となります。
↓↓↓↓↓↓






1 2 3 4 5 6 7 8 9 10    全300件


Facebookはじめました。良かったらいいねボタン。押して下さい。

創業安政2年(1855年)
これからも時を重ねて育まれた京焼・清水焼ならではの雅な意匠と、職人の手技を次の世代に伝えて行きたいと思います。

松韻堂
京都市東山区清水3−319
TEL
075-561-8520


営業時間 9:00〜17:00

定休日 無休

松韻堂の商品買うなら、
松韻堂本店サイトへ。
こちらもよろしくおねがいします。

松韻堂 Yahoo!店

松韻堂 楽天市場店

●松韻堂の地図


新着トラックバック/コメント

清水焼のメルマガ

メルマガ登録はこちらから

登録だけでプレゼント

毎月自動エントリー♪♪


※関連サイト※

京焼清水焼用語集

松韻堂お客様の声

松韻堂店長日記

三年坂窯 作陶日誌

新着・再入荷情報

京都人による東山案内

カレンダ
2017年7月
           
20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 31          

アーカイブ
2005年 (162)
10月 (18)
11月 (64)
12月 (80)
2006年 (959)
1月 (77)
2月 (56)
3月 (61)
4月 (68)
5月 (94)
6月 (40)
7月 (90)
8月 (74)
9月 (91)
10月 (114)
11月 (97)
12月 (97)
2007年 (1115)
1月 (90)
2月 (46)
3月 (77)
4月 (68)
5月 (62)
6月 (96)
7月 (86)
8月 (126)
9月 (95)
10月 (102)
11月 (162)
12月 (105)
2008年 (389)
1月 (212)
2月 (155)
3月 (2)
4月 (3)
6月 (2)
7月 (1)
8月 (5)
9月 (7)
10月 (2)
2009年 (5)
5月 (3)
9月 (2)
2010年 (1)
5月 (1)
2012年 (78)
8月 (20)
9月 (35)
10月 (23)

アクセスカウンタ
今日:844
昨日:837
累計:8,530,101