京都人による京都案内

京都人が京都の良きところを紹介します。たまに他府県も混じります。




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2007年10月18日(Thu)▲ページの先頭へ
亀岡夢コスモス園 2007
亀岡夢コスモス園京都の亀岡にある夢コスモス園、今年も800万本のコスモスの花が満開です。 亀岡夢コスモス園去年の満開のコスモスはこちらです。 亀岡夢コスモス園今年コスモス園前を通ったときは幸いにも快晴でした。 亀岡夢コスモス園コスモスとひとくくりにすれど、黄色や白色のコスモスもあり。 亀岡夢コスモス園子供の背丈ほど伸びたコスモスがお日様の光りを全身に浴びようとしています。 亀岡夢コスモス園青空の下、ピンクの絨毯は何処までも続きます。 亀岡夢コスモス園入園料500円です。 亀岡夢コスモス園白いコスモス。白は白でまとめて植えられています。 亀岡夢コスモス園黄色いコスモス。

地元の特産品市や駐車場完備なことから期間中、園には多くの観光客が訪れています。 亀岡夢コスモス園ピンクといえど、いろんなピンクがありました。 亀岡夢コスモス園コスモスの花海に埋もれて。 亀岡夢コスモス園このコスモス園、地元の農家が休耕田(5ha)を生かし、まち起こしや観光の目玉にと、コスモスの栽培を始めたのがきっかけということです。

近くに西国札所の穴太寺、出口王仁三郎ゆかりの小幡神社もあり、近隣の観光資源に不足していません。

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2007年10月13日(Sat)▲ページの先頭へ
山の辺の道 1
山の辺の道 1大和は国のまほろばたたなずく 青垣山こもれる大和し美し

川端康成


日本最古といわれる山の辺の道。

三輪から奈良へと通じる7世紀初めに作られた古道です。文字通り、大和平野の山裾を走る山の辺の道、天理市から桜井市までその距離約15キロといわれています。

関西有数のハイキングコース、そこを私は自転車で往復しました。(結果的に山坂道が多いせいか、半分の行程は押して歩いており、これから行かれる方には自転車はオススメしません) 山の辺の道 1京都からなら、JR天理駅まで車で行きます。そこから自転車に乗り換えて天理本通りからスタートです。商店街の中をチャリで疾走するのが恐縮ですが、ジモピーもそうしていました。 山の辺の道 1 天理界隈を歩くと天理教と書いた黒い法被を着た人に多数出会います。そうです。ここは天理王国、信者の数300万人と云われる天理教の総本部があるのです。 山の辺の道 1 京都の両本願寺のお堂の大きさをご存じかと思いますが、天理教教会本部のそれは遙かに巨大でした。 山の辺の道 1あまりにも大きすぎる。中国の天壇公園ではありません。ここは日本です。
今はやりの言葉を使うと ”どんだけー”と叫びたい気持ちを抑えながら。 山の辺の道 1どうみてもこの建物、和風建築ですが、天理教においては神殿と呼ぶべき建物なんだそうです。 山の辺の道 1いやはやすごい建物を見せて頂きましたが、こうしてはおれません。目指すは向こうの三輪山の山並みが待っています。 自転車をこげば、野山の秋、あぜ道は火事のごとし。 無限のコスモス。そういえば亀岡のコスモスはどうなっているだろう。 山の辺の道 1そうこうするうちに北の大きな神社 石上神宮(いそのかみじんぐう)へ到着です。 山の辺の道 1 境内には多数のにわとりがいました。鶏舎には天然記念物の東天紅(とうてんこう)も飼われています。 山の辺の道 1飛鳥から奈良へと続く日本最古の道「山の辺の道」の中間に位置しているここ、石上神宮は飛鳥時代の豪族、物部氏の総氏神として有名です。元々は古来朝廷の武器庫として物部氏が守っていたようです。 山の辺の道 1楼門をくぐり奥に進むと拝殿が見えてきます。この後ろに本殿があるのですが、禁足地になっており一般に立ち入ることはできません。

もともと本殿はなく拝殿からその背後の禁足地を遙拝し、禁足地には主祭神である神剣布都御魂が安置されていると伝えられてきました。

明治時代に禁足地を発掘し、剣一振(素鐶頭太刀そかんとうのたち)が出土したのを期に、これを布都御魂(ふつのみたま)として、本殿が造営されました。 山の辺の道 1石上神宮の鏡池には珍しい天然記念物、馬魚(ワタカ)が棲んでおり、次のような伝説が残っています。

その昔、後醍醐天皇が京から吉野に御忍びで行かれた事があり、 内山の永久寺までお越しになられた際に、そこのカヤの御所で御身をひそめておられたとか。
その時、御乗馬がこの池のほとりで亡くなり、 その馬の亡魂がこの馬魚になったのだという事です。

珍魚、馬魚。
世界も広いが日本も広し。
山の辺の道 1うっそうとした杉木立にかこまれた杜の静寂さは訪れる私を古代の幻想の世界へといざなってくれるかのようです。 山の辺の道 1ここまで行程の3分の1も来ていません。あと、ドンダケー

山の辺の道 2へ続く



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2007年10月12日(Fri)▲ページの先頭へ
山の辺の道
山の辺の道山の辺の道。

先日は京都を飛び出して奈良へ。
日本最古の官道といわれる「山の辺の道」を自転車で走破してきました。

山の辺の道。
大和盆地の東側に連なる山並みの麓を通る道です。2世紀から5世紀あたりの天皇陵や神社がこの道に沿って点在しています。 山の辺の道日本の古代道路はローマのアッピア街道のように広く長かれど、まさに収穫の道でした。

万葉集で歌われた山の辺の秋、明日から。

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2007年10月11日(Thu)▲ページの先頭へ
光明寺−綾部 君尾山の密教寺院−
光明寺−綾部 君尾山の密教寺院−京都府綾部市にある京都府北部で唯一の国宝、二王門のある君尾山 光明寺へ行って参りました。

綾部観音霊場第三十三番、真言宗醍醐派 君尾山 光明寺、ここは綾部が誇る観光寺院です。偶然、住職の奥様にお会いしましたが、昨今の国宝ブーム、東京からでも新幹線やタクシーを乗り継いでわざわざこの山へお出でになる、ありがたいことですと申されていました。 光明寺−綾部 君尾山の密教寺院−綾部の光明寺、近年は明智光秀による2度にわたる焼き討ちが有名で、現在は国宝の二王門とそこから離れた古い本堂が残るのみ、過去何度も火災によって規模を縮小しています。

光明寺の歴史は深く聖徳太子の勅願で推古七年(599年)に建立されています。
その後、修験道の祖である「役の行者(えんのぎょうじゃ)」弘法大師の孫弟子にあたる聖宝理源大師らが、この地で修行し、光明寺は修験道の一大道場とし栄え、山上、山下に72坊を有する巨刹であったそうです。 光明寺−綾部 君尾山の密教寺院−いままでいろいろな寺を回りましたが、君尾山 光明寺、ここがダントツ山奥にありました。 光明寺−綾部 君尾山の密教寺院−光明寺本堂は京都府指定文化財、江戸時代後期(1836年)再建されました。また本堂の「千手観世音菩薩」様は秘仏でなんと33年に一日のみご開帳されるそうです。 光明寺−綾部 君尾山の密教寺院−本堂の回りには400年前のお堂や、 光明寺−綾部 君尾山の密教寺院−梵鐘、南北朝時代の宝篋印塔(市指定)があります。いずれも質実剛健な鎌倉期を思わせる作りでした。 光明寺−綾部 君尾山の密教寺院−国宝の二王門は本堂から500メートルほど下った場所にあります。光明寺の伽藍は山の斜面を切り開いて建てられており何処へ行くにも長くて急な階段、それだけかつては巨刹であったということです。 光明寺−綾部 君尾山の密教寺院−これが国宝の二王門です。 光明寺−綾部 君尾山の密教寺院−永年、風雪に耐えてきたため大破寸前の状態でしたが、昭和25年より解体修理を行い宝治二年戊申(1248)の墨書名と棟札の発見によって鎌倉時代の建築である事が明らかになりました。修理においては、なるだけ古材が用いられ材質はほとんど杉です。屋根は全国的にも珍しく栗の板で葺いてあり、三間一戸二重門の均整のとれた姿です。 京都府北部唯一の国宝建造物であり、昭和29年指定されました。 光明寺−綾部 君尾山の密教寺院−この国宝の二王門を見るためだけにこの綾部の山奥へ来られる方もあるそうです。 光明寺−綾部 君尾山の密教寺院−阿吽の二王像。 光明寺−綾部 君尾山の密教寺院−原則、門の奥行は2間でありますのを「光明寺の二 王像」は保存方法から、奥の一間の間に安置されております。しかも 後側、横側の窓は盲連子窓で雨風を防いでおります 光明寺−綾部 君尾山の密教寺院−聖徳太子と光明寺。 光明寺−綾部 君尾山の密教寺院−京都府綾部市睦寄町君尾は京都市内からでも車で3時間。京都とひとくくりにすれど、北部は広かったです。


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2007年10月07日(Sun)▲ページの先頭へ
福知山城下に秋の空
福知山城下に秋の空天正8年(1580年)頃、明智光秀が築いたのが始まりとされている福知山にある福知山城を尋ねました。 福知山城下に秋の空本丸東側の自然な川、法川に架かる大きなアーチは天守台へ龍が昇る様子を思わせることから昇龍橋と名付けられています 福知山城下に秋の空福知山城築城者であり、領地にあっては善政を施した明智光秀は亀岡や福知山辺りでは今もって根強い人気があります。 福知山城下に秋の空朝暉公園入り口には隅櫓風建物の佐藤太清記念美術館があり、これが思いかけず滅法良かったのですが、その話はまた。 福知山城下に秋の空その日、城下をテクテク歩いてみると秋の空、鰯雲や鱗雲が広がっていました。 福知山城下に秋の空城の堀に植えられた曼珠沙華の花が満開、どこもかしこも秋のご様子。 福知山城下に秋の空戦国時代丹波において勢力をもっていた塩見氏が現在の福知山城の地に「横山城」を構えたが、明智光秀の丹波攻略により改修され、「福智山城」となり現在の「福知山城」となったのが城名の由来です。 福知山城下に秋の空城跡は、現在、福知山城址公園となっていて、ほぼ本丸部分が残されています。この福知山城、福知山盆地の中央に突き出た丘陵地に立っていることから、福知山界隈を車で走ればどこからでも拝むことができ、町のシンボルにもなっています。 福知山城下に秋の空石垣は、築城当初の面影を残しており、穴太衆による野面積み、乱石積み、穴太積みなどと呼ばれる自然石をそのまま用いた豪放なもので、福知山市の指定文化財。なんせ、近江坂本城を築城した光秀の建築ですから、ここも穴太積なのも納得です。 福知山城下に秋の空福知山城天守閣の大屋根に載る鯱(しゃち)瓦を複製。 福知山城下に秋の空豊磐井です。城に住むものにとって飲料水の確保は死活問題でした。深さ50m(城郭内湛水井としては日本一の深井戸)の豊磐の井は、今も海抜30mの高さまで水をたたえています。 福知山城下に秋の空この辺りはしょっちゅう時代劇の撮影に使われるようです。 福知山城下に秋の空小天守東側にある朝暉神社(あさひじんじゃ)です。
朽木分家始祖朽木稙綱(関ヶ原の役で西軍から東軍に 寝返った朽木元綱の3男・福知山朽木家初代藩主 朽木稙昌を奉る神社ということです。 福知山城下に秋の空城内部は写真撮影禁止。水戸黄門の世界展が開かれていました。 福知山城下に秋の空天守閣の眺望がすばらしい。ここからの眺めを見ながら、本能寺の変を起こすか否か考えたのでしょうか。この空、季節はすっかり秋ですな。 福知山城下に秋の空近くの三段池公園や、明智藪。遠くは鳥ヶ岳や三岳山まで望めます。 福知山城下に秋の空城を出ると、本丸南面石塁上に移築されている銅門番所があります。 二の丸の銅門(あかがねもん)脇(現在の市役所東側)にあった番所で唯一の城内建物遺構です。
大正時代初期に小天守台上に移築され、更に、昭和59年天守閣再建に伴いこの場所に移築されました。 福知山城下に秋の空安土城に似た特色のある大天守、また、天守台石垣 は三期にわたり拡張されています。 福知山城下に秋の空福知山城の魅力はなんといっても天守台をささえる石垣にあり。未加工の自然石が用いられた野面積みには五輪塔や宝篋印塔を始め、石仏・石臼・灯篭など200個もの転用石がはめ込まれています。(あたかもデパートの大理石に埋まった化石を探すようによくぞ強引にはめ込んだ物と見とれてしまいました)


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2007年10月01日(Mon)▲ページの先頭へ
多賀大社−お伊勢、お多賀の子でござる−
多賀大社−お伊勢お多賀の子でござる−お伊勢参らば お多賀へ参れ お伊勢お多賀の子でござる

お多賀はんこと、滋賀県犬上郡多賀町多賀に鎮座する大きな神社、多賀大社に足を伸ばして行ってみました。近江はもとより東海や京阪神の人々の信仰を集め、毎年の初詣には45万人の人出です。

実はお多賀さんは、5年前の平成14年の7月から、平成19年まで『平成の大造営』という大掛かりな工事の最中でした。 多賀大社−お伊勢お多賀の子でござる− 古事記によると、伊邪那岐と伊邪那美が天下ったという伝説のある多賀町の地は、この夫婦神を祭った多賀大社の門前町として栄えてきました。

多賀大社の鳥居の向かい側に当る道沿いには、清水さんの参道のようにみやげ物・名物屋さんが軒を連ねていますが平日のせいか閉まっていました。 多賀大社−お伊勢お多賀の子でござる− 天照大神の親神様である伊邪那岐と伊邪那美を祭り、縁結びの神、長寿の神として信仰されてきました。

「お伊勢まいらば お多賀へまいれ お伊勢お多賀の 子でござる」 と俚謡でうたわれている様に、ここの神様は天照大御神の親神だけでなく、我が国の国土を始め八百万の神々をお生みなされたということから、伊勢に参らずとも多賀で十分と思われている方は多いようです。 多賀大社−お伊勢お多賀の子でござる−多賀大社の名物は、門前町で振る舞われる延命蕎麦、糸切餅や多賀杓子があります。

とりわけ、お多賀杓子(\300)は、養老年間、天正天皇の病気平癒のため、多賀社の神官らが強飯をたき、シデの木で作った杓子を添えて献上したところ、天皇は全快されたということから無病長寿のしるしとなったと言うことです。 多賀大社−お伊勢お多賀の子でござる− 石の大きな鳥居を越えると有名な石のそり橋こと、太閤橋があります。 多賀大社−お伊勢お多賀の子でござる− 太閤橋は太閤秀吉が多賀大社に寄せた信仰から現在はそう呼ばれているが、正式名称は「太鼓橋」なんだそうです。  江戸初期寛永十五年に徳川幕府の助成もあって、大僧正慈性によって本殿以下緒堂社の造営が行われ、この大造営の際に構築されたものです。 多賀大社−お伊勢お多賀の子でござる−門をくぐると杉木立に覆われた広々とした境内。 多賀大社−お伊勢お多賀の子でござる−堂々たる風格の本殿、能舞台、絵馬殿などが建ち並びます。社殿は何度かの倒壊や火災により立て替えられ、現在の社殿は昭和7(1932)年に再建されたものです。 多賀大社−お伊勢お多賀の子でござる−絵馬堂です。 多賀大社−お伊勢お多賀の子でござる−上には大津絵が掛かっていました。 多賀大社−お伊勢お多賀の子でござる−右手見えるは神馬舎。中は馬の人形でした。
商売繁盛の金咲稲荷神社を筆頭にそのほかにも天満神社、愛宕神社、秋葉神社と 非常に多くの境内社があります。 多賀大社−お伊勢お多賀の子でござる−能舞殿。能舞台と奥の小屋が渡り廊下で繋がれた造りをしています。 多賀大社−お伊勢お多賀の子でござる− 多賀大社の境内に「寿命石」という一種の霊石があります。 多賀大社−お伊勢お多賀の子でござる−寿命石の由来

 今からおよそ800年前、俊乗坊重源上人は戦乱で焼失した東大寺復興の命を受けます。が、そのとき既に61歳。そのため、この大事業を成功できるようにと多賀大社に17日間籠もり、ひたすら延命を祈ったところ、「莚」の字の虫食いのある柏葉が舞い落ちてきました。草かんむりは十を二つ並べて書くところから、上人は二十年の寿命を授かったと歓喜し、無事に東大寺復興の事業を成し遂げました。  そして、この寿命石が、そのときの霊験を得た際のゆかりの石だと伝えられています。 多賀大社−お伊勢お多賀の子でござる−大きな文庫。多賀大社には徳川家ゆかりの建造物も多いです。 多賀大社−お伊勢お多賀の子でござる−太閤蔵です。
豊臣秀吉が、生母 大政所の病気平癒を多賀大社に祈願し、全快のお礼として米一万石が寄進された。それによって社殿の改修や奥書院庭園などの築造がされたときのひとつです。 多賀大社−お伊勢お多賀の子でござる−鐘楼です。
ここの鐘は、室町時代後期、1555年の鋳造品です。当時、室町幕府、佐々木六角氏、浅井氏らによる大々的な修造が行われた際に造られたもので、鐘の高さは156.2cmもあるそうです。 多賀大社−お伊勢お多賀の子でござる−一対の大釜です。
徳川幕府によって行われた1634年、1698年の両大修復工事を記念して設けられた御湯神事の調度品と伝えられている物です。 多賀大社−お伊勢お多賀の子でござる−多賀大社拝殿・本殿です。多賀大社は拝殿か左に大きく伸びる廻廊で、内部の神楽殿や本殿を大きく囲っているので、本殿はほとんど見えません。 多賀大社−お伊勢お多賀の子でござる−多賀大明神殿、縁結びは終わりましたので、次回は厄除けをお願い致します。 多賀大社−お伊勢お多賀の子でござる−巨大な杉老木に囲まれ堂々とした風格を持つ茅葺きの本殿は真新しくなっていました。

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2007年09月29日(Sat)▲ページの先頭へ
鈴虫寺−寿々むし8000匹−
鈴虫寺−寿々むし8000匹−阪急嵐山線「松尾駅」から徒歩15分、桂にある妙徳山華厳寺、通称 鈴虫寺へお参りしました。 鈴虫寺−寿々むし8000匹−寺内に多くの鈴虫が飼育され、季節に関係なく一年中鳴いていることから鈴虫寺と呼ばれるようになりました。その数なんと8000匹以上だそうです。 鈴虫寺−寿々むし8000匹−入学・開運・良縁のご利益があり、嵐山方面の人気の観光寺院です。平日にもかかわら境内の外へまで行列は続いています。 鈴虫寺−寿々むし8000匹−鈴虫寺入口には、どんな願い事でもかなえてくださる有名なわらじばきの幸福地蔵がおられます。ここのお地蔵さん、一度住所と名前を云ってお願いすると、次からはこちらからお参りしなくてもわらじを履いてあなたの家まで願いごとをかなえに、歩いて来てくださるそうです。 鈴虫寺−寿々むし8000匹−幸福地蔵の足下です。確かにわらじを履いていらっしゃいました。 鈴虫寺−寿々むし8000匹−この幸福地蔵のにっこり笑ったお顔、どことなくここでカリスマ説法をしている副住職に似ていませんか?(そう思うのは私だけでしょうか) 鈴虫寺−寿々むし8000匹−ここへ来る9割以上が女性です。失恋した人や芸能人も良く来るらしいです。珍しいお地蔵さんのお守り「幸福お守り」を持つと、ひとつの願いごとをかなえて下さるそうで、自分だけでなく、家族や友人の分まで買う人もいました。 鈴虫寺−寿々むし8000匹−本堂へはいるとエアコンをガンガンかけた大広間に案内されます。ここで名物和尚の法話を聞くことになるのですが、前に置かれたいくつものガラスケースに飼育されている鈴虫のすごい数。鈴虫が過ごしやすいように鈴虫のためにエアコンをかけているそうです。

鈴虫の大合唱が鳴り響くなか、お茶とお菓子を出され、時間にして30〜40分ぐらいでしょうか、ユーモアたっぷりのお話を聞かされます。 残念ながら、鈴虫などの撮影は禁止されていました。 鈴虫寺−寿々むし8000匹−本堂外へ出て中の撮影は許されています。みな面白そうに鈴虫を見ています。 鈴虫寺−寿々むし8000匹−鈴虫寺境内の庭園は、自然の山々を取り込んだ回遊式庭園です。 この庭園は、全国の竹が植えられた竹林を中心に、鈴虫の鳴き声はもちろん自然とみごとに調和した美しさを見せてくれます。 鈴虫寺−寿々むし8000匹−もらったお茶菓子には鈴虫とは書かず、寿々むしと書かれていました。寿が続くめでたい虫、鈴虫、中の黒いつぶつぶは死んだ鈴虫の死骸をすりつぶしていれてありますと、

和尚の落ちがありましたがあれは嘘でシソの葉(ゆかり)です。 鈴虫寺−寿々むし8000匹−お寺もある種サービス業、和尚や企画のエンターテイメント性が鈴虫寺に全国から多くのファンを引きつけている理由がわかりました。

しかし8000匹以上の鈴虫どうやって数えたのだろう?


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丹波マンガン記念館−強制連行のモニュメント−
丹波マンガン記念館−強制連行のモニュメント−京都は京北町にある鉱山の中を実体験できる丹波マンガン記念館へ行ってみました。

丹波マンガン記念館は在日朝鮮人の元鉱員李貞鎬さん(1995年死去)が、自身の所有する新大谷鉱山を家族で整備し、資料館とともに1989年に建てられたものです。

現在は、ご子息が李龍植さんが館長を務めておられ、溜まり溜まった濃い話を聞かせて下さいました。 丹波マンガン記念館−強制連行のモニュメント−裏の鯖街道ともよばれる周山街道から辺鄙な山道を奥深く入っていくと記念館はあります。ほんとにこの奥に記念館はあるのかと思えるような場所にあり、場内は独特の雰囲気があります。私が訪れたときは奈良の人権団体の方が来ておられました。 丹波マンガン記念館−強制連行のモニュメント−丹波はかつて国内最大のマンガン採掘地帯です。旧京北町、旧日吉町、旧美山町を中心として丹波盆地の中に、300もの鉱山があったそうで、1896年頃から1983年頃(なんと最近)まで採掘が行われました。いまもなおあちこちにその坑道が残っています。 丹波マンガン記念館−強制連行のモニュメント−この記念館の裏山にもその跡はあちこちに穴が残っているそうで、散策道ができていました。

生野や石見の銀山と異なり、大手が参入するほど高価でもないマンガン、その多くは零細企業や軍部が中心となって開発したのだそうです。
私も陶芸材料やマンガン電池でも使うマンガン、鉄と溶け合わさると、鉄を強くする性質を持っているため、とりわけ戦時中たくさん掘られました。 丹波マンガン記念館−強制連行のモニュメント−鉱山で働いていた人々の多くは、朝鮮半島や中国、被差別部落の人たちです。戦時中に労働力不足を補うためにとりわけ朝鮮から多く強制連行されてきました。 丹波マンガン記念館−強制連行のモニュメント−飯場はご飯を立って食べたり休憩する場所です。一度、シベリアに強制連行された日本人の生活ぶりをお伝えしましたが、こちらも目を覆うほど悲惨でした。だんご汁と菜っ葉だけの生活、それでも当時、強制連行された朝鮮人は男の人で200s〜300s、女性で100s近いマンガンを毎日背負って運んだそうです。 丹波マンガン記念館−強制連行のモニュメント−戦争中は被差別部落の人々を中心とした労働者が20s〜30s離れた最寄りの鉄道駅まではベタ(牛)車でマンガンを運びました。

被差別部落の人、強制連行の朝鮮人同士でも差別は行われたようです。 丹波マンガン記念館−強制連行のモニュメント−川端大切坑入口です。300メートル約30分、ここから坑道のなかを実体験できます。 丹波マンガン記念館−強制連行のモニュメント− 坑内の温度は10度、ポタポタと上から水が降ってきてコウモリが飛んでいました。 丹波マンガン記念館−強制連行のモニュメント−中には当時の採掘作業などがマネキンをおいて再現されています。 丹波マンガン記念館−強制連行のモニュメント−タヌキ掘りといってはいずりながら横穴を掘っていくのがここの鉱山の特徴です。 丹波マンガン記念館−強制連行のモニュメント−暗く怖いの一言です。 丹波マンガン記念館−強制連行のモニュメント−展示物や看板は手作り。これがこの記念館の独特の雰囲気を醸し出していました。 丹波マンガン記念館−強制連行のモニュメント−終戦後、帰国された方でも多くの方がじん肺で苦しまれたそうです。 丹波マンガン記念館−強制連行のモニュメント−もし岩盤が崩れたら?実際崩れた鉱山もあるでしょう。 丹波マンガン記念館−強制連行のモニュメント−セットの(ハンマー)の手掘り、サザエの明かり。 丹波マンガン記念館−強制連行のモニュメント−その過酷さは筆舌に尽くしがたいのでぜひこの目でご覧下さい。 丹波マンガン記念館−強制連行のモニュメント−半時間いるだけでも狭く暗く気が狂いそうになりました。 丹波マンガン記念館−強制連行のモニュメント−鉱山を出ると記念館のゲートに出ます。どうやら山の中を一周したようでした。

出口近くに鍛冶場が再現。発破ノミ、姑息ノミ、当時の道具は各自、鍛冶場で焼きさきがけました。 丹波マンガン記念館−強制連行のモニュメント−資料館にて日本史の歴史に刻まれた人権侵害の歴史が展示されています。

記念館に来て見て確かに云えること、それはここの館長の話、すべて事実ですヮ。


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2007年09月24日(Mon)▲ページの先頭へ
皇大神社−元伊勢三社−
皇大神社−元伊勢三社−元伊勢内宮といわれる丹波の皇大神社へお参りしました。 皇大神社−元伊勢三社−徳川時代から明治初期にかけては、年間の参拝者は8万人ほど、麓には宿屋が10軒、土産物屋や茶屋が軒を連ねていたそうですが、現在はその面影はありません。

当時は由良川の水運が利用され、船着場から1里、4qほど歩くだけで良かったので、老若男女大勢の人が参拝したそうです。 皇大神社−元伊勢三社−皇大神社の御由緒

当社は、皇祖天照皇大神をお祀りする神社で、正式社名は皇大神社であるが、一般に元伊勢内宮を冠してお呼びしている。 十代崇神天皇39年に「別に大宮地を求めて鎮め祭れ」との皇大神の御教えに従い、永久にお祀りする聖地を求め、それまで奉祭されていた倭の笠縫邑を出御されたのが今を去る二千数十年前のはるかな昔であった。そしてまず最初に、はるばると但波(たにわ)へ御遷幸、その由緒により当社が創建されたと伝えられる。

皇大神は4年ののち、御神蹟(みあと)をとどめて再び倭へおかえりになり、諸所を経て、56年後の垂仁天皇26年に、伊勢の五十鈴川上にお鎮まりになった。 天照皇大神の御神徳を仰ぎ慕う崇敬者は、引き続いて当社を伊勢神宮内宮の元宮として、「元伊勢内宮」あるいは「元伊勢皇大神宮」、「大神宮さん」などと呼び親しみ、今に至るも庶民の厚い信仰が続いている。                   (皇大神社の由緒より) 皇大神社−元伊勢三社−元伊勢三社の中でもっとも内宮が歩くこととなります。参道の中央にそびえる大きな杉は麻呂子杉といって、聖徳太子の弟の麻呂子親王が、この地方を拠点としていた英呉、軽足、土熊(あご、かるあし、つちぐま)に率いられた鬼を退治する際、その勝利を祈願して植えたものだと伝えられています。 皇大神社−元伊勢三社−真名井の池です。 皇大神社−元伊勢三社−一の鳥居から歩くこと15分、境内に到着です。境内には樹齢1000〜2000年と推定される杉の木があちこちに生えており、杉木立でかこまれた元伊勢内宮は、現在の伊勢内宮に負けず劣らず神域を感じさせるのに十分おごそかな空間が広がっています。 皇大神社−元伊勢三社−皇大神社の厄神さんです。
厄除神の本宗でもある奇岩窓神・豊岩窓神を祀る御門神社があります。   皇大神社−元伊勢三社−その横、カネのなる石です。 皇大神社−元伊勢三社−本殿です。本殿の鳥居は「黒木鳥居」と呼ばれる、皮が付いたままの木を使う古い形式の古いものです。 皇大神社−元伊勢三社−本殿を囲むようになんと81もの末社が祀られております。 皇大神社−元伊勢三社−こちらは皇大神社、神楽殿です。 皇大神社−元伊勢三社−奉納された古い絵馬が並びます。興味深いですが、残念ながら意味が解りません。 皇大神社−元伊勢三社−日出の奇麻知、冬至の日に太陽の登る方向に伊勢と元伊勢と大江山、与謝まで一直線に並ぶのだそうです。大江山と元伊勢そして伊勢神宮の関係を示す「古代の神秘」です。 皇大神社−元伊勢三社−栲機社と本殿の間にあるのが龍灯の杉です。

「節分の深夜、龍が灯を献ずると言い伝えられている。幹回り約7米、高さ約30米、樹齢2千年と推定される御神木。」とありました。 皇大神社−元伊勢三社−1961年に信者の灯明の火から火災に見舞われ無惨な姿になってしまい、また平成3年の台風により枯死寸前だったものを、平成6年に樹勢回復施術が行われています。 皇大神社−元伊勢三社− 本殿は茅葺きの神明造。屋根の上に乗っている鰹魚木は10本。屋根の端から斜め上に突き出している千木は、先端を地面と平行に切る内ソギ。社殿の左右に屋根を支える棟持柱があるということです。 皇大神社−元伊勢三社−私もお参り。芳名録には沢山の人の記帳がありました。 皇大神社−元伊勢三社−御若叡の森、君が代碑とさざれ石です。 皇大神社−元伊勢三社−裏手に回ります。 皇大神社−元伊勢三社−本殿全景。 皇大神社−元伊勢三社−本殿左脇に伸びる龍灯の杉が元伊勢内宮のシンボルのように見えます。是非ともこのまま枯れることなく立ち直って欲しい物です。 皇大神社−元伊勢三社−皇大神社から岩戸神社へ続く道の途中に、元伊勢の御神体山である日室ヶ嶽と一願成就として信仰されている遥拝所がありました。心霊降臨の神山とされ、禁足地となっています。 皇大神社−元伊勢三社−最後に古神道の聖地、元伊勢三社の外宮、豊受大神社へ参りました。


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2007年09月23日(Sun)▲ページの先頭へ
東一口界隈
東一口久御山にある古い町並みの残る地域、東一口あたりを歩いてみました。京都の方はご存じですが、一口と書いて「いもあらい」と読みます。

現在の久御山ジャンクションから北に広がる田園地帯は昭和の初期まで巨椋池(おぐらいけ)という巨大湿地帯でした。池の周囲16km、800haの広さで、中世から干拓や水路の付け替えが頻繁に行われたが、明治に入って干拓が本格化し、昭和16年には巨椋池は無くなってしまいました。 東一口現在は農家や他の職種に就かれていますが、当時、この東一口あたりの村民は皆漁業を営んでいたそうです。 東一口東一口(ひがしいもあらい)の前川(巨椋池排水幹線)堤の両岸が約300本のソメイヨシノで埋め尽くされます。 京都の自然200選にも選ばれています。 東一口 国道一号から一歩東一口に入ると、京都市内とは異なり、石垣を高く積み上げ、その上に住まいを立てる独特の集落が続いています。 東一口 迷路のように細い路地が行き交い、瀬戸内の尾道などを散策している錯覚を覚えます。 東一口昭和の初期までは回りが池でしたので、交通の手段は船だったのでしょう。池に囲まれていた当時の様子が忍ばれます。 多くの家の下にある車のガレージは伊根の舟屋のように舟を収納したのではと思います。 東一口静かな町並みは昔のままの重厚な瓦を積んだ屋根の家が多く、歴史を感じさせます。 東一口こんな風に幾重にも競うように瓦を乗せた家々が続きます。 東一口東一口、恵比寿さん、大黒さんを玄関に飾る家が非常に多いです。 東一口漁業ということではないでしょうが、鯉。 東一口梅に鶯。 東一口鍾馗さん。 東一口細長い家並が続く東一口(ひがしいもあらい)の中ほどに、壮大な長屋門を有する屋敷を見つけました。

巨椋池漁業の総帥を務めた大庄屋 山田家です。 この地に残る山田家は巨椋池漁業の総帥を務めた大庄屋です。 東一口その昔、巨椋池漁業権の総帥であり、御牧郷13ヵ村をまとめていたという大庄屋の格式は 当時の姿を今に伝えています。 東一口長屋門は、東西15間(27メートル)、奥行2間半(4.5メートル)で、 2間半の入口には、観音開きの大きな扉があります。屋根はすべて「丸に五つ引き」の家紋瓦で葺き、 棟(むね)の両端の鯱(しゃち)は重厚な白壁とよく調和ししています。書院の間は、 欄間に網代(網代)や鯉の彫刻がほどこされ、巨椋池での漁業の繁栄を物語っています。 東一口ちょうど山田家長屋門向かいの道を北上すると大池神社というこれまた池にちなんだ神社があります。巨椋池に生息していた全動植物の鎮魂と農業の安全と繁栄を願って創建されました。 東一口山田家の長い長屋門、当時の一口の繁栄ぶりを物語っています。 東一口 巨椋の入り江として万葉の古歌にも詠まれ、近世にいたるまで文人墨客たちにその水郷風景をめでられた巨椋池のほとりの村、東一口。
平成の代になっても脈々と続く、巨椋池の漁業の繁栄と久御山の歴史、今もなお、息づいていました。


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2007年09月22日(Sat)▲ページの先頭へ
御陵、天智天皇山科陵
御陵、天智天皇山科陵天気が良かったので久しぶりに山科区御陵にある天智天皇陵へ行ってみました。 御陵、天智天皇山科陵大化の改新で有名な中大兄皇子の墓は天智天皇山科陵というそうです。 御陵、天智天皇山科陵考古学上は御廟野古墳とよばれ、ここは第38代天智天皇のお墓だとされています。

墓が京都の山科に造られたのは天智天皇が馬で山科に行った時、行方不明で戻らなくなり、沓だけがここで見つかったのでここに墓を造ったという伝承によります。 御陵、天智天皇山科陵入り口にある日時計です。
天智天皇が日本ではじめて奈良明日香に時計台を造ったことにちなみ、設置されています。 御陵、天智天皇山科陵うっそうとした樹林の参道を400メートルまっすぐ進むと拝所へたどり着きます。 御陵、天智天皇山科陵ずっとひたすら歩くこと15分。途中、琵琶湖疎水へ抜ける道があり。 御陵、天智天皇山科陵御陵は、広大な林に囲まれ山科陵と呼ばれる上円下方墳の大きな御陵でした。 御陵、天智天皇山科陵天智天皇は大化の改新によって、近江大津宮で668年(天智7)に即位しますがその3年後に死んでしまいます。 御陵、天智天皇山科陵皇位継承をめぐって息子の大友皇子と弟の大海人皇子との壬申の乱のことを知るよしもなし。 御陵、天智天皇山科陵人気の多い三条通りから天皇陵の中に一歩、歩みを進めると、そこは静まり返っていてまるで別世界でした。


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2007年09月21日(Fri)▲ページの先頭へ
天の岩戸神社−元伊勢三社−
天の岩戸神社伊勢神宮はもともと丹波にあったものを伊勢へ遷宮したとされており、丹波にはかつての内宮や外宮などの元伊勢三社が残っております。

その一つが今回の天の岩戸神社です。 岩戸山元伊勢の由来

地の伝承によれば、第10代崇神天皇の39年、大和笠縫邑から天照大神の護神体である八咫鏡を4年間お祀りした丹波吉佐宮の旧跡といわれ、その後全国を転々と移動した後、54年後に今の伊勢神宮の所に正式に鎮座されたとされることから、古来より元伊勢内宮皇大神社として西日本各地の崇敬を集めて来た。また元々丹後地方に天下った神様である豊受大神をお祀りしたのが外宮で、雄略天皇の22年に天照大神の夢告によって、三重県の現在地に移転されたとされております。 天の岩戸神社岩戸神社参道前にて
社内案内板より引用

岩戸山 京都府歴史的自然環境保全地域 昭和59年3月13日指定(京都府加佐郡大江町)
天岩戸神社は大江町の元伊勢三社[皇大神社(内宮)・豊受大神社(外宮)・天岩戸神社]の一つで、伊勢の皇大神宮の元宮として、古くからこの地方の象徴的存在として崇敬されてきました。

天岩戸神社の祭神である櫛岩窓戸命・豊岩窓戸命は門を守る岩石の神であり、岩戸渓谷の幽玄の地を天岩戸に比定し、古事記の大神の門番神を配祀していると伝えられています。 天の岩戸神社天照大神の神隠れの神話を伝えるのが天の岩戸神社。日本のピラミッドと言われる日室ヶ嶽のふもとの渓谷の谷底、宮川の河岸に建っています。 天の岩戸神社宮川の河岸に建つ神社であり、宮川の流れが作り出した岩場が社域、天の岩戸神社内を流れる水は、聖なる水とされています。 天の岩戸神社元伊勢のご神体山である日室ヶ嶽は神の山なので、原則的に神のテリトリーに入ることは禁止されています。よって、基本的に祭りを行なう際は山麓に祭祀場を設け、そこに山頂に宿る神を降臨させてお迎えするという方式をとっていたのでこのような場所に天の岩戸神社が建てられたのです。 天の岩戸神社産釜遙拝所、安産祈願だそうです。 天の岩戸神社天岩戸神社の由緒

当天の岩戸神社は、往昔地神の元始神天照大神籠居ましし霊地にして真名井ヶ原・真名井ヶ池・楽の堂・産盥・産釜・神楽岩・御座石・鶏鳴岩・鱒池・鮎返りの滝等の地名 旧蹟あり 殊に産盥の霊水は平常満水することなく或は減水することなく且つ腐水することかってなく此の霊水は干魃の際其の霊水の少許を水上に注ぐ時は如何なる干魃時と雖も神雨不思議に降り来り庶民安堵の胸を撫するにより往昔より今に至るも尚其の慣例絶へざるなり  
昭和四十七年九月     天岩戸大神宮
天の岩戸神社人気のない社務所を横切り、ずっと崖を下っていくと社殿はありました。 天の岩戸神社これが天の岩戸神社の社殿です。よう建てたなあというのが率直な気持ちです。

急な崖斜面に建っており、なぜ不安定でお参りしにくいこの地をわざわざ選んで建てたのか、湿気や増水を乗り越えられたのかと思うと不思議でなりません。 天の岩戸神社社殿前にて。礼拝するには鎖を持って崖を登って行くしか方法がありません。 天の岩戸神社天岩戸神社の本殿裏に御座石という巨岩がありますが、撮影出来ませんでした。その岩は降臨した神が座する聖石だと語り継がれております。 天の岩戸神社続いて元伊勢三社の残り、元伊勢外宮豊受大神社と元伊勢内宮皇大神社へ参りました。


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2007年09月20日(Thu)▲ページの先頭へ
鬼の山から神の山へ
鬼の山から神の山へ京都の鬼の住む山、大江山へ登った折、もともと伊勢神宮が京都にあった頃の元伊勢の神体山である日室ヶ嶽山に出くわし、元伊勢三社詣でして帰ってきました。 鬼の山から神の山へ 本当の伊勢神宮、失礼、元伊勢神宮を流れる宮川こと別名、五十鈴川にかかる五十鈴川橋。 鬼の山から神の山へ元伊勢内宮皇大神社、元伊勢外宮豊受大神社、天岩戸神社の元伊勢三社から拝む日室ヶ嶽。日室ヶ嶽は岩戸山・城山・日裏が岳・日室岳など多くの別称を持ち、神霊降臨の聖山と伝えられています。 鬼の山から神の山へ日室ヶ嶽遥拝所(一願さん)、ここは神体山的存在である日室ヶ嶽を遥拝できる場所です。この遥拝所から日室ヶ嶽、つまりは天照大神に拝礼すれば、必ず自分の望みが叶うという「一願成就」の慣習が今もなお、語り継がれています。

その日、遥拝所から日室ヶ嶽まで一切の樹木類の邪魔が入らず、山裾から山頂まで三角形のきれいな山形が見えました。

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質志鍾乳洞−京都唯一の鍾乳洞−
質志鍾乳洞−京都唯一の鍾乳洞−京都の旧瑞穂町、現在の京都府京丹波町質志にある京都唯一の鍾乳洞といわれる質志鍾乳洞へ行ってみました。 質志鍾乳洞−京都唯一の鍾乳洞−質志(しづし)鍾乳洞はJR嵯峨野線「園部駅」からバスで1時間、車の場合は丹波インターから国道9号経由で1時間ちょっとと少し不便なところにありますが、鍾乳洞口に着くとここ京都かとびっくりするほどの大自然に恵まれています。 質志鍾乳洞−京都唯一の鍾乳洞−平成7年に観光洞として整備された、京都府唯一の鍾乳洞です。ここの鍾乳洞には当時の伝説が残っており、案内板に以下の通り記されていました。

この鍾乳洞は昭和2年に発見されました。 土地の古老達は果してこの鍾乳洞は何処ま で続いているかと、話題になり取りあえず 犬と鶏を洞内にいれたという。犬は途中で 引返したが、鶏は3km程はなれた大原神 社の下のホラ穴にでて大きな声で鳴いたと の伝説が残っている。 質志鍾乳洞−京都唯一の鍾乳洞−質志鍾乳洞公園内はキャンプ場になっており、水が綺麗なのか不老長寿の名水なるものもありました。 質志鍾乳洞−京都唯一の鍾乳洞−事務所で入洞料510円を払って、山を登っていきます。 ここで右のほうへ折れたので、野ぶきの五滝は見ることが出来ませんでした。 質志鍾乳洞−京都唯一の鍾乳洞−標高400メートル、一種の登山のよう。その日気温33度もありました。 質志鍾乳洞−京都唯一の鍾乳洞−質志鍾乳洞入り口に到着。 質志鍾乳洞−京都唯一の鍾乳洞−ここの鍾乳洞は岡山や山口のものと異なり竪穴型です。高低差に富み、総延長52.5メートル、深さ25.1メートルもあります。 質志鍾乳洞−京都唯一の鍾乳洞−中は15度くらいかな?気温が低く、先ほどの熱波が嘘のようにひんやりとしています。 質志鍾乳洞−京都唯一の鍾乳洞−最初の方は天井も高く、通路も広かったのですが、次第に人ひとりずつしか通れないほどの狭さになります。 質志鍾乳洞−京都唯一の鍾乳洞−両手で手すりにつかまって後ろ向きに狭い階段を下りていきます。 質志鍾乳洞−京都唯一の鍾乳洞−途中、黄金柱などの鍾乳石もあり。残念ながらウミユリなどの動物の化石は見る余裕がありませんでした。 質志鍾乳洞−京都唯一の鍾乳洞−降りること10分。 質志鍾乳洞−京都唯一の鍾乳洞−あたりはひとりずつ通れるぎりぎりの狭さまで来ると、洞窟最深部へ到着です。 質志鍾乳洞−京都唯一の鍾乳洞−驚いたのはお賽銭がたくさん落ちていました。山や川だけでなく、洞窟にも神が宿るということでしょうか。

実はこの竪穴洞、公開されているのは4層あるうちの3層まででもっと奥深いのだそうです。 質志鍾乳洞−京都唯一の鍾乳洞−鍾乳洞は雨水や地下水が石灰岩の割れ目に流れ込み、 溶解侵食してできた穴ぼこ。何万年と水が落ち続けるとここまでなるのかと継続は力なりという言葉の重みをあらためて思い知らされました。

京都府天然記念物 質志鍾乳洞ホームページより引用
 
質志鍾乳洞は、高屋川上流の標高約400メートルに位置し、洞の延長は 約120メートル、入口から最深部までマイナス25メートルと規模は大き くないが、京都府では唯一の鍾乳洞で、昭和2年(1927)に発見された。 当時は鍾乳石や石筍(せきじゅん)も多くあったが、現在までにその多くは 折損、破壊された。

 はるか昔(約2憶6000〜7000万年前)このあたりは海の底にあり、 貝殻やサンゴといった石灰質の生物の死骸がつもって堅い石炭岩がつくられ た。その後、陸地になると、二酸化炭素を含む雨水により、石灰岩は何万年 もかかって溶かされ、この鍾乳洞ができた。  このため、鍾乳洞やその付近には古い地層が露出しており、よく探すとい ろんな化石がみつかる。その代表的なものに、二億年以上昔のナゾの化石で あるコノドントや、フズリナ(紡錘虫・・・単細胞の原生動物)、ウミユリ などがある。

 また洞内は洞窟動物の格好の住家で、昭和14年には生物学者の吉井良三 氏により、日本で初めての新種甲虫が発見され、「ヨシイメクラチビゴミム シ」と命名された。ほかにトビムシ類も生息しており、昼間は天井にぶらさ がるコウモリを見ることもできる。



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2007年09月18日(Tue)▲ページの先頭へ
酔芙蓉の咲く大乗寺
酔芙蓉の咲く大乗寺酔芙蓉の花がそろそろ見頃とのことで、蹴上を越えた山科の日ノ岡にある酔芙蓉の寺 法華宗 大乗寺へ参りました。 酔芙蓉の咲く大乗寺酔芙蓉は芙蓉の花の園芸品種です。 酔芙蓉の咲く大乗寺 朝に白い花を咲かせますが、午後になるとだんだんピンクに花色が変わっていきます。
酔芙蓉の咲く大乗寺 夕方から夜にかけてさらに赤くなり,翌朝にはしぼんでしまいます。  このさまを,酒飲みの顔がだんだん赤くなってくることにたとえて,「酔う芙蓉」ということからつけられた名前です 酔芙蓉の咲く大乗寺京都新聞の朝刊にも載ったせいか、寺内は人であふれかえっていました。 酔芙蓉の咲く大乗寺
白から薄紅、赤へと、一日の内に色が移り変わるスイフヨウの花で知られる京都市山科区の大乗寺で、今年も直径十センチを超える八重咲きの花が咲き始めた。十七日の市内の最高気温は三四・四度(京都地方気象台調べ)まで上がり、うちわを手に花をめでる観光客の姿が見られた。  住職がおらず、荒れていた同寺を岡澤海宣住職(七八)夫妻が一九九二年に改修した際、岡澤住職の詩吟の弟子がスイフヨウ約百本を寄贈したのが始まり。約千五百本が九月から十月にかけて次々と花を咲かせている。  気温が低くなれば赤い花が翌日まで残り、鮮やかな紅白の対比を見せるようになるが、この日は蒸し返す熱気の中、薄赤色に染まった花びらが時折風に揺れていた。  京都地方気象台によるとこの暑さは、太平洋高気圧が再び勢力を強めているためで、今週中は好天で三〇度を超える日が続く見込み。
京都新聞より引用
酔芙蓉の咲く大乗寺現在5分咲き、満開までもう1週間ほどかかるそうですが、桜のように一気に咲くのではなく、一輪咲いて萎むと、次の一輪が咲くという風に長期間ぼちぼち咲く花のようです。 酔芙蓉の咲く大乗寺一重咲きのものもあれば、 酔芙蓉の咲く大乗寺八重咲きもあり。 酔芙蓉の咲く大乗寺住職の丹精込めた酔芙蓉の鉢、その数なんと1500株以上もあるのだそうです。 酔芙蓉の咲く大乗寺アオイ科の芙蓉は中国ではもともと「蓮の花」のことだったそうで、水の中に咲くものを水芙蓉、木に咲くものを木芙蓉と呼んでいました。 酔芙蓉の咲く大乗寺芙蓉の花が短命で、一日花のはかなさに諸行無常の教えを悟り、蓮の花に仏教の縁を重ねて植えたそうです。 酔芙蓉の咲く大乗寺こんな風にまだまだ蕾はいっぱい。 酔芙蓉の咲く大乗寺昔から美人のたとえに「芙蓉の顔(かんばせ)」、またその美しさから富士山の異称、「芙蓉の高嶺」あるいは「芙蓉峯」なる言葉も生まれました。                  酔芙蓉の咲く大乗寺早朝訪れたのですが、日の光を浴び、ほのかに薄紅が差し始めている物を見つけました。 酔芙蓉の咲く大乗寺平成15年、和歌山県吉備町の近藤清一氏の寄贈によるこちらは酔芙蓉観音像です。 酔芙蓉の咲く大乗寺日当たりの良い高台に立って皆東を向いています。 酔芙蓉の咲く大乗寺 酔芙蓉の咲く大乗寺 酔芙蓉の咲く大乗寺枝ぶりの日ごとにかはる芙蓉かな  松尾芭蕉 酔芙蓉の咲く大乗寺日蓮宗、大乗寺の芙蓉はすべて白色です。 酔芙蓉の咲く大乗寺熊ん蜂参上。 酔芙蓉の咲く大乗寺君がため 春の野に出でて 若菜つむ わが衣手に 雪はふりつつ
小倉百人一首の光孝天皇御歌碑。 酔芙蓉の咲く大乗寺山里ハ冬ぞさびしさまさりける人目も草もかれぬとおもえば
同じく小倉百人一首の源 宗干 歌碑です。 酔芙蓉の咲く大乗寺ほとんど植木鉢に挿し木をしたそうですが、冬場どんな景色になるのでしょうか。 酔芙蓉の咲く大乗寺法金剛院もそうですが、人の背丈ほども育っています。 酔芙蓉の咲く大乗寺酒を飲むと顔色がだんだんと赤みを帯びるのに似ていることからこの名がついたといわれています。 酔芙蓉の咲く大乗寺9月は一日で赤みがさすものも、10月になると日差しのせいで2日かかって薄紅に染まるそうです。 酔芙蓉の咲く大乗寺 立ちわたる 身のうき雲も 晴れぬべし たえぬ御法(みのり)の 鷲(わし)の山風

晩年の日蓮が身延山(山梨県)の草庵で 詠んだとされている 日蓮上人の歌碑です。 酔芙蓉の咲く大乗寺 清浄を 得されば花も 世の塵と  おしゆ こころの 吟の道ゆく

和歌一首の歌碑は京都市詩吟文化連盟各流派によって建立されています。 酔芙蓉の咲く大乗寺酔芙蓉どころか芙蓉が千本以上あるところは珍しいようです。夕刻、大乗寺内はどんな景色となるや甚だ気になります。

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本圀寺−御陵の黄金寺院−
本圀寺山科の御陵にある日蓮宗の大本山、本圀寺を訪れました。 本圀寺−御陵の黄金寺院−本圀寺は御陵の天智天皇山科御陵の裏手にあり、山科疎水を渡って参ります。この疎水にかかる橋、擬宝珠も黄金、正嫡橋といって本圀寺山門へ続きます。 本圀寺−御陵の黄金寺院−本圀寺の山号は大光山、開運門は通称「赤門と呼ばれている朱塗りの門です。
旧地にあったものは文禄元年(1592)、加藤清正公が寄進した山門で、文禄の征韓時、清正が出陣したと伝わっています。開運勝利の神様「せいしょこ(清正公)さま」 の門を潜ると開運勝利の人生が開けることから「開運門」と呼ばれています。 本圀寺−御陵の黄金寺院− 本圀寺は、昭和45年(1970)、堀川七条から、現在地の山科へ移転してきた新しいお寺ですが、その由緒は大変古いです。 本圀寺−御陵の黄金寺院− 京都に二つある日蓮宗の大本山の一つで、今から七百数十年昔の建長5年(1253)。日蓮聖人(1222-1282)が当時、鎌倉幕府のあった鎌倉の松葉ヶ谷に開いた草庵・法華堂が始まりです。その後、日蓮上人は法華堂を日朗(第二祖)に譲り、第三祖日印に継がれた元応2年(1320)、堂塔を建て本勝寺としたのがもととなっています。 本圀寺−御陵の黄金寺院− 中門です。扁額に正嫡付法の文字。貞和三年(1348)、日静聖人は光明天皇から正嫡付法の綸旨を賜り、三位僧都に任命されました。 本圀寺−御陵の黄金寺院−本圀寺は京都の他の寺院のイメージと違い、キラキラと輝くモノが目に付きます。中門屋根には金の鯱。 ご存じでしょうが、鯱(しゃちほこ)は、姿は魚で頭は虎、尾ひれは常に空を向き、背中には幾重もの鋭いとげを持っているという想像上の動物、名古屋城のものが有名ですが京都の山科にもありました。 黄金に輝く阿吽の像。 キンキラの阿行の像の表情。こんなの始めてみました。 本堂前にて。
本堂前の灯籠一対も黄金です。
もとの名は本国寺と表していましたが、1685年(貞享2年)に徳川光圀(水戸黄門)から圀の一字を下され、本圀寺と改名されました。 本圀寺−御陵の黄金寺院− 南妙法蓮華経、開祖日蓮上人の像です。本堂内陣にも大きな金色の柱などがあるそうですが、残念ながら拝観できませんでした。 本圀寺−御陵の黄金寺院−本堂のその横、本師堂は日蓮上人の持仏であった釈迦尊が祀られています。 本圀寺−御陵の黄金寺院− 本師堂前の燈籠、細部も金尽くし。 本圀寺−御陵の黄金寺院−鐘楼にある梵鐘もなんと金色。 本圀寺−御陵の黄金寺院−大梵鐘は 文禄2年(1593)に、豊臣秀吉の姉・日秀尼の寄進によるもの。梵鐘は高さ240cm、直径150cmもある。梵鐘には約200名余の法号が列記され、中に秀吉の両親の法号や木下家一族の法号が並ぶそうです。 本圀寺−御陵の黄金寺院−本師堂右手には派手な金の鳥居があり、九頭龍銭洗弁財天を祀っています。 本圀寺−御陵の黄金寺院−滋賀県にもありますが、この弁財天は八大龍王の中で最も神通力の強い神様といわれ、特に金銭、財運の御利益を良しとされています。 本圀寺−御陵の黄金寺院−龍神から流れ出る霊水で銭を洗い、浄財袋に入れて持っていると 財運がつくそうです。 本圀寺−御陵の黄金寺院−地味な石の灯篭にからみつく金の龍の彫りは非常に細かいです。 本圀寺−御陵の黄金寺院−最後にみささぎ霊園と書かれた案内板を頼りに、墓地のほうへ向かうとそれはありました。 本圀寺−御陵の黄金寺院−虎殺し、加藤清正を祀る清正宮です。本圀寺は朝鮮出征時の加藤清正の祈願所及び菩提所であったそうです。 本圀寺−御陵の黄金寺院−もとの清正廟は、加藤清正の女・搖林(ようりん)尼の建立とされています。 本圀寺−御陵の黄金寺院−清正廟の前にある鳥居も金色。 本圀寺−御陵の黄金寺院−このほかにも一切経や八角形の輪蔵を納めてある経蔵などもありました。
日蓮上人か、清正、何れのお方が金をお好きなのでしょうか。

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2007年09月17日(Mon)▲ページの先頭へ
ちりめん街道
ちりめん街道京都府北部、丹後半島の基部にある与謝野町加悦を訪れてみました。 ちりめん街道与謝野町加悦の旧街道沿いは江戸時代から明治・大正・昭和にかけてちりめん産業の生産、物流の拠点として栄えた。商家や銀行、郵便局、洋館の医院、旅館、酒蔵、鉄道の駅などの建物が残った縮緬之道、「ちりめん街道」と呼ばれています。 ちりめん街道現在では、安価な輸入品に押され、加悦のちりめん街道沿いに40軒以上あった機屋が激減し、今は6軒しか残っていないそうです。 ちりめん街道加悦町を中心とする丹後地方の丹後縮緬は日本一のちりめん生産地として近代化も早くもかつては輸送用の加悦鉄道も引かれました。 ちりめん街道その丹後ちりめんの技術も西陣織がもととなっているそうです。 ちりめん街道ちりめん街道を脇道にそれると、いくつもの神社や寺が建ち並んでいます。

天満神社。
参道の137段の石段を登ると、江戸時代の享保18年(1733)に建てられた本殿があります。その脇には、鎌倉時代につくられた石燈篭が立っています。ともに京都府指定文化財。

宝巌寺。
松に囲まれた落ち着いた佇まいの中に、江戸時代後期、文化15年(1818)に再建された山門が石段の上にそびえています。 ちりめん街道街道の歴史は古く安土桃山時代に加悦谷を支配した安良城主の有吉氏により作られたそうです。 ちりめん街道平成17年重要伝統的建造物群保存地区に選定され、毎年10月に「ちりめん街道まるごとミュージアム」を開催しています。 ちりめん街道花街道を思わせる竹花生けが軒先にかけてあります。 ちりめん街道 あちこちにちりめん街道の文字。 ちりめん街道ちりめん街道の入り口、与謝野町加悦庁舎の斜め前にある旧加悦町役場です。 1926年の建築で洋風の木造2階建てで、町役場の建設で現在地に移転されました。 ちりめん街道 現在は観光案内所、加悦鉄道資料室に使用。織物の道具を利用した民芸品も紹介。舟形の「シャットル」を利用した「丹後の杼和風七福」も飾られています。 ちりめん街道 街道筋に白壁の大商家が多い。玄関とは別に家格と財力の象徴を表す仏事などで住職が出入りする立派な露地門があります。 ちりめん街道職を変えて現在もお住まいとのことです。 ちりめん街道通りの中でも一際大きな一軒、旧尾藤家へ入ってみました。 ちりめん街道正式名、旧尾藤家住宅は近畿北部の大型農家を基本として、それに丹後の生糸ちりめん商家の要素を加え、さらに昭和初期の洋風住宅建築が付加されているなど、和と洋の世界が融合した建築と評価され、平成14年3月26日、京都府有形文化財に指定されました。 ちりめん街道尾藤家より加悦町(当時)へ建物が寄付され、加悦町が保存修復工事を行い、現在は一般に公開されています。 ちりめん街道 中はさながらミュージアムのようになっており、 ちりめん街道迷路でもあり。 ちりめん街道学芸員の案内のもと丁寧に紹介して頂けます。 四季ごとにふすまの柄を変えているとか。 ちりめん街道煎茶用の茶室もあり ちりめん街道巨大なおくど。 ちりめん街道大きな神棚。 ちりめん街道恐ろしく広かったのを覚えています。ここの何代目かの奥様は播州織のほうから嫁がれ、兵庫の豊岡方面から船で家は移築したそうです。 ちりめん街道2階引き戸の千鳥。 ちりめん街道紫檀などの材木にもこだわって建てられています。 ちりめん街道和と洋が融合した建物。五個荘の近江商人屋敷、スキー毛糸の旧外村繁家とだぶりました。 ちりめん街道旧尾藤家住宅を見ていくと尾藤家の歴史はちりめん街道の近代化の歴史そのものであることがわかります。ちりめん街道を行くならぜひ、旧尾藤家へ足を運んでみてください。


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梅花藻の咲く醒井宿 その2
梅花藻の咲く醒井宿 その2滋賀米原にある中山道の宿場町 醒井宿 その2です。 梅花藻の咲く醒井宿 その2醒井宿中心部の西端は地蔵川に掛かる大橋から東端は加茂神社・地蔵堂までの間約300mには格子や虫籠窓を備えた伝統的な商家の建物が建ち並んでいます 梅花藻の咲く醒井宿 その2ここは古い町並みはもちろん、町を流れる地蔵川の水の冷たさと美しさに驚きます。絶滅寸前の珍魚のハリヨが生息するほど澄んでおります。地蔵川に沿って通りを歩くだけでひんやりした気分になれ、涌き水の恵み最高でした。 梅花藻の咲く醒井宿 その2地蔵川を流れる清流の水源は加茂神社の石垣からでているそうで、東の端にある加茂神社へお参りに行ってみました。 梅花藻の咲く醒井宿 その2急な階段をあがり境内に入ると、醒ヶ井宿どころか遙か向こうの山並みまで一望できます。 梅花藻の咲く醒井宿 その2古事記や日本書紀で伊吹山の大蛇退治に出かけた日本武尊が大蛇の毒を受け、高熱をさましたという伝説、「居醒の清水」はここにあります。 梅花藻の咲く醒井宿 その2居醒の清水のすぐ隣に蟹石があります。「醒井の三名水四石」といわれている四石の一つで、他の二つ日本武尊の腰掛石・鞍掛石も境内にありました。 梅花藻の咲く醒井宿 その2年間を通じて水温15℃の清水です。 梅花藻の咲く醒井宿 その2加茂神社をでて西の方へ向かって歩きます。 梅花藻の咲く醒井宿 その2加茂神社の隣にあるのが、延命地蔵堂です。鎌倉時代の作で、滋賀県唯一の大型丸彫り地蔵尊として米原町文化財に指定。なんでも「尻冷やし地蔵」と呼ばれているとか。 梅花藻の咲く醒井宿 その2醒井宿資料館(問屋場)です。

問屋場とは江戸時代、街道の宿駅で、宿場を通行する大名や役人に人足や馬の提供、荷物の積替えの引継ぎ事務を行なっていたところをいい、完全な形で残っているのは全国でも珍しいそうです。 梅花藻の咲く醒井宿 その2本陣跡。 梅花藻の咲く醒井宿 その2江戸時代の儒学者雨森芳洲も、「水清き人の心をさめが井や底のさざれも玉とみるまで」という歌を詠んでいます。 梅花藻の咲く醒井宿 その2十王水と文字が刻まれた石灯籠辺りからもわき水がでています。平安中期の天台僧浄蔵により水源がひらかれた名水です。初めは浄蔵水と呼ばれていましたが、泉の近くに十王堂があったことから十王水と呼ばれるようになりました。 梅花藻の咲く醒井宿 その2西行法師ゆかりの西行水あたりからも水は涌いています。

ここの茶店に立ち寄った西行法師が飲み残した茶の泡を、茶店の娘が飲んだところ、不思議にも懐妊し、男子を出産した。帰路にこの話を聞いた西行は「もし我が子なら元の泡へ帰れ」と念ずると、その子はたちまち消えて、もとの泡になったという不思議な伝説が残されています。 梅花藻の咲く醒井宿 その2ここからはバイカモの花と共に。 梅花藻の咲く醒井宿 その2水上は 清き流れの 醒井に 浮世の垢を すすぎてやみん

西行法師も歌を残しています。
梅花藻の咲く醒井宿 その2どこか高瀬川に似ている感もあり。 梅花藻の咲く醒井宿 その2古くは日本武尊から、江戸の旅人まで今も昔も生活用水として使われています。 梅花藻の咲く醒井宿 その2霊仙山からわき出る清水の冷たさに吃驚するばかりでした。

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2007年09月13日(Thu)▲ページの先頭へ
醒井養鱒場
醒井養鱒場8月も真っ盛り、避暑を兼ねて京都から車を走らせて、滋賀の米原にある醒井養鱒場を訪れた時の話です。 醒井養鱒場醒井養鱒場は明治11年(1878年)に設立された日本でもっとも歴史のある水産研究施設の一つです。霊仙山山麓の鍾乳洞から湧き出る清水を利用した大小の池には、ニジマスなど百万尾あまりが群泳。 醒井養鱒場 また、施設の周辺は「醒井渓谷」として国の名勝に指定されており、大自然の中にとけ込んだ観光も込みの水産試験場です。 醒井養鱒場英語名、醒井トラウトミュージアム。

中山道醒井宿から宗谷川に沿って、醒井峡谷を上流へ4キロのところに位置しておりひんやりしています。 醒井養鱒場霊仙山から流れる豊かな清水を引いているのでなにより、水が綺麗なのにびっくり。 醒井養鱒場ニジマスの数は160万匹以上いるそうで、食用出荷用に飼育されていました。 醒井養鱒場場内の池、川と何処をのぞいてもニジマスがいます。 醒井養鱒場電動の水車で川の流れを作っているのか、逆らって泳いでいます。 醒井養鱒場黒いニジマスがそうです。珍しいブルートラウト、アルビノの金色のニジマスもいました。 醒井養鱒場サメガイということではないでしょうが、カスピ海の古代魚、チョウザメが何故かいました。 醒井養鱒場写真では解りませんが、1メートル以上あります。一緒にいた妻はあまりの巨大さとグロさにびびっていましたけれど。帰りにここまでせっかく来たから鱒料理を食べようと云いましたが、かわいそうでとても食べられないと漏らしました。 醒井養鱒場霊仙山山麓の鍾乳洞から湧き出る清水、鍾乳水の透明度って素晴らしい。 醒井養鱒場何処へ行っても澄んだ水とマスの群泳。 醒井養鱒場本館は魚学習館になっており、詳しくマスの生態を見れます。 醒井養鱒場ふれあい河川やつり場もあって家族連れにオススメです。醒井渓谷の場内は春は桜、秋は紅葉、四季それぞれに豊かな自然に恵まれていますが、広い場内は木々が生い茂り開放的、夏場がとりわけ良いようですョ。
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梅花藻の咲く醒井宿 その1
梅花藻の咲く醒井宿滋賀県の中山道の宿場町、醒井宿の街並み、バイカモが見頃の絶好の季節に行ってきました。 梅花藻の咲く醒井宿醒ヶ井の地名の由来は、「日本書紀」の日本武尊の伝説に登場する「居醒泉」が醒井の地名の由来であるといわれています。

むかし、日本武尊が東国遠征からの帰途、伊吹山に荒ぶる神がいると聞き、退治しようと山に登った。山神は大蛇となって尊を惑わし、尊は正気を失って山を降り、泉の水を飲んでやっと正気を取り戻した。そこで、その泉を居醒泉(いさめがい)と名付けた」とそうです。 梅花藻の咲く醒井宿清楚な流れ地蔵川に沿って中山道が走っています。清流の宿場町です。古代からの交通の要衝であり豊富な湧き水があったことが、旅人の休憩場所として最適の条件であったことは間違いありません。今も地蔵川の清らかな流れが町を潤しています。 梅花藻の咲く醒井宿JR醒ヶ井駅から歩くこと10分。醒ヶ井宿はあります。 梅花藻の咲く醒井宿旧醒井郵便局局舎です。

昭和48年まで醒井郵便局として使われていました。大正4年に創建され、設計には米国出身のウイリアム・メレル・ヴォーリズが携わっているとされてきたが、平成12年の改修工事の際に行われた調査では昭和9年に外壁・間取り変更などの改修が行われて現在の形になったことが判明した。しかし基本構造はヴォーリズの手によるものを踏襲しているという。 梅花藻の咲く醒井宿残念ながら何れ指定されることと思いますが、まだ、醒ヶ井宿は重要伝統的建造物群保存地区、通称伝建地区にはなっていません。 梅花藻の咲く醒井宿 醒井宿を流れる地蔵川は、「居醒の清水」や「十王水」「西行水」など、いくつかの湧き水が合流してできた川です。 梅花藻の咲く醒井宿 川沿いのあちこちに階段があり、やかんやスイカが冷やしてあり、生活と密着しています。 梅花藻の咲く醒井宿これが醒井宿を昨今観光地化させている有名な梅花藻(バイカモ)の花です。

中山道を流れる地蔵川のバイカモはキンポウゲ科の水生多年草で、清流でしか育ちません。 7〜8月ごろに、梅の花に似た白い小花を咲かせることから『梅花藻(バイカモ)』の名が付きました。 梅花藻の咲く醒井宿 夏の最盛期には直径1.5cmほどの愛らしい花が一斉に川面から顔を出します。 梅花藻の咲く醒井宿 指を添えてみるとその小ささが解るかと思います。その名の通り、五弁の白梅の花のようでした。 梅花藻の咲く醒井宿、美しい緑色をした藻の揺れ、澄みきったせせらぎは見飽きることがなく、京都からの旅人に格別の涼を与えてくれます。

梅花藻の咲く醒井宿 その2へ続く
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2007年09月10日(Mon)▲ページの先頭へ
酒呑童子の里−京に鬼のいでし山ありー
酒呑童子の里鬼伝説で有名な大江山の酒呑童子の里へ行きました。 酒呑童子の里大江山を舞台に鬼伝説には有名な3つの伝説が伝わっています。ひとつは、謡曲やお伽草子で有名な大江山の鬼を源頼光が退治したもの、もうひとつは3人の鬼が麻呂子親王に退治されたもの、最後は日子坐王が陸耳御笠という土蜘蛛を退治したという話です。 酒呑童子の里京都府福知山市大江町仏性寺、福知山の山奥に大江山酒呑童子の里はあります。昭和48年まで河守鉱山という銅山があった跡地を国土庁/京都府の支援で、平成5年4月に開設されました。

山の反対側、与謝野町でも昭和14年、ニッケル鉱石が発見され、現在の「道の駅シルクのまちかや」に精錬場が完成、工場と野田川駅を結ぶ加悦鉄道もかつては引かれていました。 酒呑童子の里大江山は福知山市と与謝野町の境に位置する標高832.5mの山で、道中、鬼の像があちこち置かれています。 酒呑童子の里 赤鬼。こわいといより近所のおやっさんに山奥であった気分。 酒呑童子の里こちら青鬼。酒呑童子の里ということでみんな鬼は酒飲みです。 酒呑童子の里『あっちに僕たちの郷はあるよ』
はしょりますが、面白いのは全員名前が付いていることです。 酒呑童子の里大江山へむかう頼光達。

大江山 いくのの道は遠けれど まだふみもみず 天橋立

源頼光が四天王を引き連れて、大江山に棲む鬼、酒呑童子を退治にいくシーン。 四天王とは、渡辺綱、坂田金時、碓氷貞道、ト部末武の4人 一行は、神から神酒を授けられた後、酒呑童子が家来の鬼と酒盛りをしている座に加わり そこで神酒を飲ませ、神酒の功徳で力を失ったところを退治する。

そんな話を聞くと鬼と人間どちらが悪なのか悩まされます。 酒呑童子の里鬼の交流博物館前庭の大鬼瓦です。写真では小さく見えますが高さ5メートル、重さ10トンありでかい。 日本鬼師の会(鬼瓦製作者の会)共同制作した日本一の大鬼瓦ということです。 酒呑童子の里こちらも日本の鬼の交流館前にある青海波唐破風門の屋根です。波と雲と龍をあしらった青海波瓦を 唐波風造りの屋根に装飾した門とのことで、あちこちに鬼のモチーフを散らしています。 酒呑童子の里酒呑童子がいます。 酒呑童子の里裏門にも酒呑童子(の子?)はいました。暗闇の中ではじめて見たら怖いと思う。 酒呑童子の里交流館前にて。たしかインドネシアの鬼だったと思います。 酒呑童子の里日本の鬼の交流館館内は鬼をテーマにして鬼瓦や各地に伝わる鬼面、鬼伝説の絵巻物、鬼のわら人形、外国の鬼に似た仮面など約500点ほどを展示してありました。 酒呑童子の里飛鳥時代から現在までの年代順に鬼瓦が並んでいます。地方によって微妙に鬼の表情に違いがあり、かなり面白いです。 酒呑童子の里恐れられる鬼あれば、 酒呑童子の里追われる鬼や有り難がられる鬼あり。ひとことで鬼と云っても地方風土によって様々な受け取られ方をされていました。 酒呑童子の里天皇皇后両陛下も来られているようです。   酒呑童子の里『玄宗は高熱のなかで夢を見る。宮廷内で小鬼が悪戯をしてまわるが、どこからともなく大鬼が現れて、小鬼を難なく捕らえて食べてしまう。』
鍾馗よ彼も鬼の一族でしたか?
酒呑童子の里交流館を含めて温泉やキャンプ場もある大江山は子供でも大人でも楽しめる場所だと思いました。 酒呑童子の里 最後に

鬼は想像上の存在であるのに、大昔から現代までずっと人間と共に生き続けてきた あるときは畏怖すべき鬼神として あるときは人を食らう恐ろしい怪物として またあるときは人に福をもたらすものとして・・・・ 鬼は何故邪悪なものとされ、排除される運命を担わされてしまったのか。 酒呑童子の里私たちは、ふるさとの伝説大江山の酒呑童子を通して、鬼の本来の姿をさぐり現代に生きる糧としたい 鬼とは何者なのか

その答えを出すのはあなた自身である。

鬼の交流館パンフレットより

追伸 酒呑童子殿。なぜ『酒飲みわらべ』とそなたは名付けられたのか?お教え下さい。

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2007年09月08日(Sat)▲ページの先頭へ
ちりめん街道をゆく
ちりめん街道京都は加悦町にある重要伝統的建造物群保存地区、ちりめん街道を歩いて参りました。
ちりめん街道沿いには、商家や医院、銀行跡など多様な住居が軒を連ねる、丹後ちりめんで栄えたかつての古い町並は健在でした。

ガチャマンの音を拾いましたので宜しかったらどうぞ。


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2007年09月07日(Fri)▲ページの先頭へ
大江山の雨は鬼のナミダ
大江山 鬼のモニュメント酒呑童子の里で知られる大江山の中腹にある有名な鬼のモニュメントを曇り空のもと、見に行きました。 大江山 鬼のモニュメント酒呑童子の里から車を走らせること5分の場所にそれはありました。 大江山 鬼のモニュメント
大江山鬼伝説 一千年記念
 鬼
 京都府知事 荒巻禎一
大江山 鬼のモニュメント台座にはめ込まれた銅板によれば、ウルトラマンのデザインを担当したアートディレクター成田亨氏の製作だそうで、巨大な石の台座に3体のブロンズ像の鬼が乗っています。 大江山 鬼のモニュメント三体の鬼は酒呑童子・茨木童子・星熊童子とそれぞれに名付けられています。 大江山 鬼のモニュメント大江山の酒呑童子はリアルな恐ろしい形相でかつて悪さをはたらいた京都の方を指さしています。

鬼伝説によると大江山の酒呑童子は京都と丹波国の大枝(老の坂)に住んでいたとされる鬼の頭領で、背丈が6m以上、角5本、目が15個もあり、しばしば京都に出現し、若い貴族の姫君を誘拐して側に仕えさせたり、刀で切って生のまま喰ったりしたそうです。 大江山 鬼のモニュメント脇を固める従者の茨木童子と星熊童子がそれぞれにポーズを決め威嚇しています。どの顔も長髪で痩身、鬼の交流博物館でいろんな鬼を見ましたが、最も恐ろしい印象を受けました。 大江山 鬼のモニュメント大江山山頂では運がよければ雲海を見れるそうですが、その日の大江山上空にはまさに雲海が広がっていました。 大江山 鬼のモニュメント そんな酒呑童子もときの帝が源頼光らに鬼退治を命じ、騙されては神便鬼毒酒という酒を呑まされ、寝首をはねられたと云われています。しかしその首は死しても頼光の兜に噛み付いて離さなかったそうです。 大江山 鬼のモニュメント少し辺鄙な場所にあるので私以外だれもおらず。 鬼の目にも涙と言うことわざがありますが、その日ぱらついた大江山の雨は鬼の無念を表しているように思えました。

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関宿 探訪その3
関宿 探訪その3三重県と滋賀県をまたがる鈴鹿峠にある重要伝統的建造物群保存地区 関宿探訪その3です。

宝珠の玉をかたどった大きな虫籠(むしこ)窓にかつての繁栄が偲ばれます。虫籠窓は建物二階正面にある漆喰で塗籠めた竪格子の窓。「玉屋」ではその屋号にちなんで宝珠の玉(玉から火焔があがる様)をかたどったと案内で説明されています。 関宿 探訪その3関宿を代表する旅籠、玉屋です。
玉屋(旧村山家)は、「関で泊まるなら鶴屋か玉屋、まだも泊まるなら会津屋か」と謡われたほどの、関宿を代表する大旅籠のひとつでした。 関宿 探訪その3 現在は関宿旅籠玉屋歴史資料館と名前を変えて、 江戸時代の旅籠の様子を今に伝える貴重な建造物として関町の文化財に指定され、玉屋で使われていた道具類、庶民の旅に関係する歴史資料、歌川(安藤)広重の浮世絵などを展示しています。 関宿 探訪その3ここは江戸時代の旅籠建築を修復し、当時使われていた食器やお膳類、庶民の旅に関係する歴史資料などを展示した日本最初の旅籠資料館とのことです。 関宿 探訪その3昔の宿帳やおくどさん、江戸時代のの風俗をかいま見れます。 関宿 探訪その3玉屋の昔懐かしい土間を奥に進むと右手には井戸端があり往時の台所を緻密に再現。左手には時代劇でもよく目にする帳場があります。 関宿 探訪その3離れです。離れの奥には浮世絵を展示してある大きな土蔵がありました。階段が狭く、蒸し暑かったので当時の旅人はどうやって夏の暑さを凌いだのか疑問に思いました。 関宿 探訪その3玉屋の二階には旅籠で使われていた食器・食膳が展示、宝珠の紋様の入った食器もありました。 関宿 探訪その3玉屋をでて西追分方面へ向かうと新所にたどり着きます。 関宿 探訪その3新所は関宿の西側に位置します。地蔵院の門前となる新所東側は、中町と一体の家並みを形成し、中二階の町家が多く、主屋の横に庭を設けて高塀をめぐらす質の高い町家もみられます。 関宿 探訪その3一方新所西側は、その大半が小規模な平屋で仕舞屋風であるため、全体としてやや地味で落ち着きのある町並みです。各町家の格子や庇の幕板などの伝統的な細部意匠が比較的よく残っています。 関宿 探訪その3山車倉です。関の山という言葉の語源になった関宿の山車は最盛期には十六基ありました。互いに華美を競い、また狭い関宿を練ったことから生まれた言葉で、現在は4台の山車が残り、四カ所に山車倉があります。 関宿 探訪その3伊藤本陣跡の石標。関宿には川北本陣、伊藤本陣の2軒の本陣がありました。本陣は参勤交代の大名や公家、公用の幕臣などが利用した格式の高い宿泊施設です。 関宿 探訪その1 そのほかにも東追分にかけての木崎の町並みも昔のままに残っておるそうですが、時間が無かったので次回また巡ることにしました。
関宿って広い。


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2007年09月03日(Mon)▲ページの先頭へ
関宿 探訪その2
関宿探訪その2では私が見たもの、知ったものを並べます。 幕下関宿の町屋には庇の下に幕板(まくいた)を設けた家も多いの特徴です。幕板は風雨から店先を守る霧除けのことです。

これも関宿の町並みの特徴ある美しさの一つとなっていましたが、京都では見かけないものです。 関宿 探訪その2瓦細工や漆喰細工にも子孫繁栄、家運長久を願ってか職人が技をこらして作っためずらしいものが多いです。写真は竹虎。 関宿 探訪その2松月という店の端瓦も細工瓦 三重松の意匠でした。 関宿 探訪その2漆喰彫刻の虎です。これはかつての物かしりませんが彩色でした。 関宿 探訪その2これも漆喰彫刻ですが、崩れて解りません。唐獅子でしょうか? 関宿 探訪その2漆喰彫刻。鯉滝登りです。 関宿 探訪その2漆喰彫刻 龍です。そのほかにも鶴や亀などもあるらしいですが見つかりません。 それはまた次回のお楽しみと云うことです。 関宿 探訪その2 さすがに鍾馗は乗せれていませんが、布袋や大黒さんの飾りは随所にのっていました。 関宿瓦屋根のついた立派な看板は庵看板です。

看板の文字は京都側が漢字、江戸側がひらがなになっていました。当時の識字率を背景に旅人が間違うことのない工夫だと云うことです。 関宿 探訪その2旅籠の中で。昔の蚊帳に出会いました。 関宿 探訪その2驚くほど豪華な欄間彫刻にも出会いました。 関宿 探訪その2このあたりから出土した陶磁器です。信楽や瀬戸美濃、天目茶碗風の物もありました。 関宿 探訪その2地蔵院口の交差点にある道の駅、関宿前の石標です。
街道 おんな唄の歌詞が刻まれていました。

坂は照る照る 鈴鹿は曇る
あいの土山 雨の春
負けないわ きっと咲く
花はつぼみよ 関の宿
うす陽もこぼれる 石畳

関宿 探訪その2鍛冶屋という職業があることが驚きですが、江戸時代より十二代とのことです。『純手打製』聞き慣れない言葉ですが、機械に頼らず、一切を手打ちでやっていると云う亭主のこだわりでしょうか。 関宿 探訪その2西京都、東江戸、ここは交通の要所、鈴鹿の関。

ふと始めてしまった伝建地区を訪ねる旅は、予想以上に楽しいものです。現実から離れて、心をリフレッシュできました。

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関宿 探訪その1
関宿 探訪その1所用で三重県の椿大神社へ行く予定が出来ましたので、そのついでに東海道五十三次の宿場町、関宿を訪れました。

写真は関宿の中町にある眺関亭からの西向きの景色です。美しい家並みとともに、地蔵院本堂の屋根と鈴鹿の山々が正面に見えます。関宿の最も美しい町並み景観のひとつと言われています。曇りの日だったのが残念でした。 関宿 探訪その1関宿は、東海道の往時の面影を唯一残す歴史的町並みとして、昭和59年、国の「重要伝統的建造物群保存地区」に選定されました。

関町関宿重要伝統的建造物群保存地区は、東追分、西追分の間、約1.8キロメートル、25ヘクタールに及び、木崎・中町・新所と三つの町から出来ています。その中央には国の重要文化財にも指定されている関地蔵院があります。 関宿 探訪その1平入りの建物が通りを連ねる町並みは何処までも続きます。 やはり伝建地区(重要伝統的建造物群保存地区)には電線があると興ざめします。

三重と滋賀の県境にある有名な厳しい鈴鹿峠があるせいか関宿は古代、日本三関の一つ「鈴鹿関」が置かれた所で、江戸と京を結ぶ基幹街道だけでなく、ここから伊勢別街道、大和街道へ分岐する拠点の宿でもあり、とりわけ多くの旅籠が残っています。東海道の鈴鹿の関はかつては難所でここで一夜を明かす人が多かった訳です。 関宿 探訪その1現在も人との共生は続いており、保存修復工事を進めるとともに、新しい建物についても、周囲の町並みと調和するようにスーパーや薬局なども店構えは昔のままで続いています。写真は百五銀行です。 関郵便局あたりは江戸時代には高札場がありました。「高札場」とは幕府の法度や掟書、宿場の決まりなどを掲示した場所です。 関宿 探訪その1  「東海道宿村大概帳」によると、関宿高札場には8枚の高札が掲げられており、その内容は、生活にかかる様々な規範、キリシタン禁令や徒党・強訴などの禁止といった幕府の禁令、隣接宿場までの人馬駄賃の規程などだったそうです。  明治時代になると各地の高札場は撤去され、関宿の高札場も明治10年に全て撤去されました。 関宿 探訪その1地蔵院まで来ました。境内の本堂、鐘楼、愛染道の3棟の建物は国の重要文化財に指定されています。

「関の地蔵に振り袖着せて、奈良の大仏嫁に取ろ」の俗謡で有名なあの関の地蔵院です。かつては東海道を旅する人の信仰を集め現在でも多くの参拝客でにぎわっています。 関宿 探訪その1関地蔵院門前の町並み。二階に洋風意匠の窓がついた洋風館、米をつく水車から名付けられた川音など伝統のある鍛冶屋など特色のある町屋が並んでいます。 関宿 探訪その1なかでも会津屋は現在はお蕎麦やさんですが、関宿を代表する旅籠の一つです。もとは山田屋といい、あだ討ちで有名な小方が育ったことでも知られています。左上のうだつに書かれた『あいづや』の文字が目印です。 関宿 探訪その1お蕎麦屋から理髪店、古物商、味噌、醤油、酒屋、漢方薬屋など、重要伝統的建造物群保存地区で商売をされるには共通の職業が多いです。 関宿 探訪その1何処までも平入りの低い二階建ての構成を持つ町並みが続きます。特徴としては二階はいまなお白が美しい漆喰を塗られた虫籠窓(むしこまど)、一階部分は出格子窓が付けられていたり、格子戸がついています。 関宿 探訪その1こうした漆喰の塗籠めは、土蔵のような防火的な効果を期待したものですが、 同時にその工事の難しさからその家の経済力を誇示したと関宿の資料に書いてありました。 関宿 探訪その1走行ぶらぶらしている内に、「関で泊まるなら鶴屋か玉屋、まだも泊まるなら会津屋か」と謡われたほどの、関宿を代表する大旅籠のひとつ玉屋の前に来ましたので中へ入ってみました。




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2007年08月25日(Sat)▲ページの先頭へ
化粧水
化粧水小野小町が使ったとされる井戸水、化粧水が西洞院四条の南、ローソンの角にありのを見つけました。

もとはこの地に、平安前期の歌人小野小町の別荘があったとされ、この井戸を小町が利用したことにちなんで、井戸は化粧水と名付けられました。「けしょうみず」と発音するそうです。
この石碑はその井戸跡を指し示しています。 化粧水 「化粧水は西洞院四条の南にあり いにしへ この所に小野小町の別荘 ありしなり」

 都名所図會(安永九年)より引用
 小野小町は平安時代の代表的女流歌人にて出羽國(山形県)の生れ 小野篁の孫とも伝えられる六歌仙の一人で百人一首に

  花の色はうつりにけりないたづらに
   我が身世にふるながめせしまに

と詠まれている。 西洞院の清流の当地に井戸があり。
小町が生活の場として使い以来「化粧水」の名称で親しまれ よってこれを永く後世に伝えるものとする。

 
昭和六十一年八月
        妙傳寺町々内会



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2007年08月22日(Wed)▲ページの先頭へ
首途八幡宮−京の旅立ちの場所−
首途八幡宮−旅立ちの場所−源義経が奥州に赴く時に道中安全を祈願したといわれる西陣にある首途八幡宮を訪れました。 首途八幡宮−旅立ちの場所− 平安時代末期、平治の乱において義経の父、源義朝が平清盛に敗れたため、源義経は幼くして鞍馬寺に預けられました。平家隆盛の時代であり、源氏は京都を追われて地方へ散り、後に 源義経 も 奥州藤原氏の庇護 を受けるために 奥州平泉 へと下りました。

その時、、商いで奥州藤原氏と縁のあった 金売吉次が手助けをしたとされ、義経は都を発つにあたり、吉次の屋敷の神社があったこの地で旅の安全を祈願したと言われています。 首途八幡宮−旅立ちの場所−首途八幡さん横には綺麗な公園が出来ています。 首途八幡宮−旅立ちの場所−鳥居の下には「源義経(牛若丸) 奥州へ旅立ちの地」との看板があります。鞍馬山で修行した牛若丸(源義経)が、奥州平泉へ旅立つにあたり道中の安全を祈願したという伝説。
もとは内野八幡宮といったのだそうですが、このとき以来、首途八幡宮となりました。 首途八幡宮−旅立ちの場所−細長い参道横には「源義経奥州途之地」の石碑が。 首途八幡宮−旅立ちの場所−首途(かどで)とは出発という意味で、現在は旅行安全で参る方、開運招福、開運厄除、小児の虫封じに御利益があるそうで、ちなみに授与所で売られているまゆを俵型に重ねた繭守は、嫁に行くときタンスの中に入れておくと衣装持ちになれるのだそうです。 首途八幡宮−旅立ちの場所−鳩は八幡神のお使いということから境内には鳩の形をした物が多く見られます。手水舎の水も鳩の口から出ていました。 首途八幡宮−旅立ちの場所−本殿の金具の鳩。 首途八幡宮−旅立ちの場所−絵馬も鳩。
羽の八幡宮のお使いである福鳩に囲まれた桃の実、 首途八幡宮のあたりに源氏物語の時代桃園親王の館がありましたので八幡宮と桃園親王にちなんだ由緒に基づいています。 首途八幡宮−旅立ちの場所−屋根化粧瓦ももちろん鳩。 門扉も鳩にするこだわり。 首途八幡宮−旅立ちの場所−社殿へと上る階段はふたつありますがどちらかれでも本殿へ行けます。ちなみに左階段横には弁財天や大日如来を祀ってありました。 首途八幡宮−旅立ちの場所−毎年三月には義経 首途祭(かどでさい)といって境内はかがり火がたかれ、桃灯ろうの回廊が続き、丘上の本殿の前にて日本今様謌舞楽会による「今様」の奉納が執り行われるそうです。



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水火天満宮−火難水難除けの神さん−
水火天満宮−火難水難の神さん−上京区の堀川通寺ノ内上がったところ鞍馬口南にある菅原道真公を祀る水火天満宮です。

すいかてんまんぐう、一風変わった名前も社名にあるように火難水難除けの守り神として知られています。 水火天満宮−火難水難の神さん− 延長元年(923)、醍醐天皇の勅願により都の水害・火災を鎮めるために菅原道真公の神霊を勧請して建立されました。境内にある菅公登天石は、菅原道真公の神霊が昇天した石として知られています。元は現在地よりも西の上天神町にありましたが、昭和27年に堀川通りの拡張に伴い現在地に移されてきました。 水火天満宮−火難水難の神さん−境内には道真ゆかりの牛は何処にも居らず、かわりに珍しい伝説を持つ石群が祀られています。 水火天満宮−火難水難の神さん−金龍水と玉子石。
六玉稲荷・玉光稲荷・生島稲荷を合祀した社の鳥居前にある金龍水は眼病に効くと伝わる井戸水で、その上に乗っかる丸石は玉子石と呼ばれ、妊娠5ヶ月目にこの石を拝むと安産になると云う云われがあります。 水火天満宮−火難水難の神さん−天満宮 御降臨の登天石。
道真がこの石の上から昇天したといわれる登天石です。延喜3年(903年)菅原道真が大宰府の地にて59年の生涯を閉じたその死後、都では天変が相次ぎ人々は道真の怨霊のせいだと信じ込み、時の醍醐天皇は延暦寺の法性坊尊意僧正に、祈願を依頼し、勅命を受けた尊意は早速に山を下り、宮中に急いだ途中、賀茂川まで来ると突如として水位が増し、町へと流れ込んだ。尊意は騒がず数珠をひともみして川に向かって、祈りを捧げた。すると不思議なことに水位は下がり、真っ二つに分かれ水流の間に一つの石が現われ、その上に道真の霊が現われ、やがて雲の中に消えていった。その石を供養し登天石と名付けた。
神社の登天石の御由緒より引用
水火天満宮−火難水難の神さん−出世石。
由来は、近年出世した人が寄進されたので、この名で呼ばれるらしい。 是より洛中荷馬口付のもの乗へからすそのほかにも入り口石鳥居右脇に『是より洛中荷馬口付のもの乗へからす』と記された石標がありました。

これは堀川頭にあった江戸時代の交通標識で、このあたりから市街地になるので馬から降りて口取をせよというものです。 水火天満宮−火難水難除けの神さん−謎多き水火天満宮。
紅枝垂れ桜の見れる京都の隠れた桜の名所だそうで、来春また訪れてみます。



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幸神社−鬼門封じのサル、再び−
幸神社−鬼門封じのサル、再び−御所の北側にあり、御所の鬼門を守り、猿田彦大神(さるたひこのおおかみ)を祀る幸神社へ参りました。

この愛でたい幸神社ですが、みゆきじんじゃと普通には読みません。正式には『さいのかみのやしろ』、地元人には「さちじんじゃ」と呼ばれ、招福や縁結びの神社として知られています。 幸神社−鬼門封じのサル、再び−御由緒によれば「当社の祭祀は遠く神代に始まり、天武天皇の白鳳元年御再興、桓武天皇延暦十三年平安京の鬼門除守護神として御造営あらせられる」とありますので相当な古さです。 猿ヶ辻京都御苑の北東角猿が辻と幸神社(赤山禅院も含めて)は御所の内外の鬼門を守るために丑寅の方向、一直線で結ばれ創建されたんだそうです。写真は猿ヶ辻の猿、幸神社本殿内側にも御幣を担いだ猿が納められているそうですが暗くて見つかりませんでした。 幸神社−鬼門封じのサル、再び−出雲路幸神社、どうして出雲なのか?
この辺りは出雲氏が支配していた地域と云われ、神のいる国出雲への道。古くは出雲路幸神社、出雲路道祖神社と旧社名で呼ばれていたそうです。 幸神社−鬼門封じのサル、再び−本殿廻りはたぶん萩だと思いますが草で覆われています。 幸神乃社。絵馬はもちろん烏帽子をかぶり御幣を担ぐ猿です。これと同じ姿の猿が納められているそうですが、正面に吊された絵馬で中を拝見できません。 幸神社−鬼門封じのサル、再び−何故か「縁結び」の神様としても崇敬されています。 幸神社−鬼門封じのサル、再び−境内には末社も多数あり。 幸神社−鬼門封じのサル、再び−ここは萩の花咲く頃、初秋に再度機会がありましたら訪れてみます。
幸神社とは素晴らしき名も、あいにく見つかりにくい場所にあります。

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