冷泉家

非公開文化財特別拝観にて、冷泉家を拝観して参りました。

2006年11月20日(Mon)
冷泉家
冷泉家 秋の非公開文化財特別拝観ということで、烏丸今出川の冷泉家が公開されておりましたので、拝観して参りました。

冷泉家は 京都御所の北側にある現存する唯一の公家屋敷です。

冷泉家は公家の一、藤原道長の子藤原長家を祖とする御子左流 二条家(摂家の二条家とは別)の分家で、歌聖と仰がれる藤原俊成、定家父子を遠祖とする「和歌の家」です。

定家の孫、為相を初代とし、以来八百年の長きにわたり、和歌の宗家としてその伝統を今日に伝えています。

家業は歌道・蹴鞠で、南北朝時代に上冷泉家・下冷泉家という通称で呼ばれる二家に分立しました。両家とも現在に続く名門ですが、一般に冷泉家として云われるのは、上冷泉家を指します。江戸時代における家格は羽林家で、官位は概ね権大納言を極官とされました。

この冷泉家は「れいぜいけ」と発音しますが、東西に横切る通り 冷泉通りは「れいぜん」と読みます。 冷泉家冷泉家の邸宅は昭和57年に重要文化財に指定されており、平成六年から始まった解体修理工事は足かけ七年をかけて、平成十二年に竣工。寝殿造りの殿舎の起り屋根はもともとの柿葺きに戻され、瀟洒な姿を甦らせています。 冷泉家 和歌に関する多くの書籍や古文書を守り伝え、昭和五十六年、財団法人冷泉家時雨亭文庫を設立して今日に至っています。ここ御文庫は冷泉家に伝来した貴重典籍、古文書を収めるのが御文庫で冷泉家の信仰の対象になっています。 冷泉家 冷泉家は、豊臣秀吉によって、形成された公家町の一画である現在地に屋敷を構えたのは江戸時代初めの慶長年間(1600年頃)です。以来四百年、この地を動いていません。

天明八年(1788)、御所を含む、都の過半を焼き尽くしたいわゆる天明の大火の時、御文庫などの土蔵以外の建物はすべて焼失したが、寛政二年(1790)、屋敷はすぐに再建され、今に至っています。 冷泉家 明治時代になって、ほとんどの公家は天皇に同行して東京に移り、それらの屋敷は取り壊されて、公家町は消滅し、跡地は外周に石塁を積んで御苑に整備されました。

しかし、今出川通りを隔てて、留守居役を預かった冷泉家は京都に残り、旧地にほぼ完全な姿で保存される、近世公家住宅唯一の遺構となっています。 冷泉家 今出川通りに南面して建つ表門は本瓦葺きの一間一戸の薬医門です。 冷泉家 この表門で特に目を引くのは屋根両隅の留蓋瓦として立つ、阿吽を対にする亀像瓦です。 冷泉家これは冷泉家が、京都御所の北に位置することから、いわゆる四神相応の制にいう、玄武神を表しています。

また中央梁の上にもう一匹の木彫りの亀が北向きに屋根を見守るように祀られていると言うことですが、見つかりませんでした。 冷泉家 表門を入ると奥行二間ほどの白川砂を敷き込んだ前庭をもつ玄関があります。 冷泉家 左手隅には南向きに供待の腰掛があり、立蔀で目隠しされた内玄関、と式台を敷設した大玄関が構えられています。 冷泉家 内玄関は日常的な来客や家族の出入り口であり、大玄関は当主や貴客の出入りに用いられました。こうした玄関を中核として東に晴れの座敷棟延び、座敷部の北には当主の日常生活空間としての中奥の座敷が連なっています。又、西には裏向きの台所棟が配されていると云うことです。 冷泉家 塀重門です。玄関と東の座敷棟南庭とを限る高塀に開けられた塀重門はもっともハレの出入り口で、行幸またはお成り、或いは勅使到着の可能性のある家々には必ず構えられていました。 冷泉家 そうした時には玄関に客を迎え入れるのではなく、この塀重門を通り、座敷縁先の階(きざはし)から直接、上の間に通りました。 冷泉家 左近の桜ならぬ、左近の梅です。
庭には東に紅梅、西に橘が植えられています。東が桜ではなく梅なのはまだ、国風化する前の、中国的であった古制に則るものであったためです。 冷泉家 この梅と橘は昭和57年お成りになった宮様方のお手植えによるものです。 冷泉家 玄関部西の台所棟は桟瓦葺きの切妻屋根で、禅院などの庫裏によく似た姿を表に見せています。 冷泉家 土間の正面上方にしゃぐまと称する藁束が吊り下げられていますが、これは祇園祭の長刀鉾に使われたもので、いつの頃からか祭礼後に頂いて、ここに魔よけとして飾るようになったと云われています。 冷泉家 土間南西には飾り竈が二基ありました。 冷泉家 こちらが内玄関で日常的な来客や家族の出入り口。江戸時代の鶴唐子図杉戸がはめられていました。 冷泉家 こちらは大玄関。当主や貴客の出入りに使われました。 冷泉家 奥に見える屏風が江戸時代中期の画家 原在中の孫、原在照の筆による鶏図屏風です。 冷泉家 塀重門を超えると一番先にあるのが使者の間です。こちらには雪汀花鳥図屏風が置かれていました。 冷泉家 真ん中が中の間です。こちらには衣桁に冷泉家22代為系が、天皇即位礼の折、使ったとされる 装束が衣桁に掛けられていました。 冷泉家冷泉家22代冷泉為系の写真。 冷泉家 最後に一番東側にあるのが上の間です。上の間には身分の高い客、中の間には同等の客、使者の間には身分の低い客や使いの者が通されました。 冷泉家 上の間から使者の間に至る部屋境の欄間は素通しですが、これは儀式や行事によって、襖を取り外して、全体を一室化するゆえの構造です。上の間の床が部屋の中央に構えられているのは神事の神の座として使うことを考えたもので冷泉家独特の使い方です。
冷泉家 部屋の襖には黄土色の地紙に雲母で型押しした牡丹唐草の唐紙が貼られていますが、この様な無季的な唐紙を用いるのは、歌を詠む折に、室内からの季節性を排除し、絵柄が邪魔にならない考慮です。 冷泉家 上の間の北にある広間(17畳半)は近代的な客間として、大正時代に新設されました。座敷棟の北部分には当主の日常生活空間である松の間、鶴の間があり、それぞれ松、鶴の意匠の唐紙が用いられているそうです。 冷泉家 冷泉家の庭です。小さくてこじんまりとしており、四季折々の植物が植えられています。 冷泉家 冷泉家の庭にはいくつもの井戸が掘られていました。 冷泉家江戸時代の画家文雍の筆による双幅「雪に牡丹、芙蓉に吾木香図」。 冷泉家 こちらは孝明天皇の遺愛品でもある江戸時代の画家 森徹山の鹿図を垣間見ることができました。 冷泉家こちらが有名な梶の木です。古代から神に捧げる神木として尊ばれ七夕祭に「歌」を葉に直接ヘラなどで書きお供えされてきました。
現在では七夕はササに飾りをつけますが、昔は、梶の葉や枝が用いられたのです。そのために梶の木は、神社の境内などに多く生えられ、主として神事に用い供え物の敷物等に使われました。 冷泉家特に、宮中での七夕飾りや冷泉家に伝わる「乞巧奠」(陰暦7月7日の七夕儀式)には、牽牛、織女の二星(たなばた)に、種々の供物をし、蹴鞠、雅楽、和歌などを手向けて、その技が巧みになるようにと祈ります。


京焼・清水焼専門店〜京の器や・夕庵〜









ブログランキング参加中。ワンクリックお願いいたします。
↓↓↓↓↓↓






writebacks(1)
京都で新築一戸建て情報 Posted by 京都で新築一戸建て情報 さん at 2007/07/22 15:55
京都は、日本の歴史的都市。

トラックバック(trackback)
URL:

コメント(comment)
名前(*):
URL/Email: (optional)
タイトル(*):
コメント内容(*):
画像認証(*): 表示された画像の文字を入力してください:

名前と URL/Email をcookieで保存

創業安政2年(1855年)
これからも時を重ねて育まれた京焼・清水焼ならではの雅な意匠と、職人の手技を次の世代に伝えて行きたいと思います。

谷口松韻堂
京都市東山区清水3−319
TEL/FAX
075-561-8520

営業時間 9:00〜18:00
定休日 無休

松韻堂の商品買うなら、
松韻堂ドットコムへ。
こちらもよろしくおねがいします。
松韻堂 Yahoo!店
松韻堂 楽天市場店
●谷口松韻堂の地図
●お問い合わせはこちらへ


新着トラックバック/コメント


カレンダ
2006年11月
     
20
   

アーカイブ
2005年 (163)
10月 (18)
11月 (64)
12月 (81)
2006年 (959)
1月 (77)
2月 (56)
3月 (61)
4月 (68)
5月 (94)
6月 (40)
7月 (90)
8月 (74)
9月 (91)
10月 (114)
11月 (97)
12月 (97)
2007年 (1116)
1月 (90)
2月 (46)
3月 (77)
4月 (68)
5月 (62)
6月 (96)
7月 (86)
8月 (126)
9月 (95)
10月 (103)
11月 (162)
12月 (105)
2008年 (389)
1月 (212)
2月 (155)
3月 (2)
4月 (3)
6月 (2)
7月 (1)
8月 (5)
9月 (7)
10月 (2)

アクセスカウンタ
今日:2,029
昨日:3,060
累計:2,462,461